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98/08/25
第五回
読み切り
ミニコラム
'Let's go out tonight'



'Let's go out tonight'



 今から丁度一年前、創刊の時に書いたブラジル音楽にまつわるエピソードは、私の人生の中でも「あぁ、自分は音楽ファンで良かったなぁ」と思わせる実に思い出深いものである。しかし、改めて考えると、あのような話はあれが初めてではなかった。時は9年前、1989年に遡る。所は東京千駄ヶ谷の専門学校、津田英語会である。

 当時私は日中は世田谷区内にある大学で経営学を学び、夜は専門学校で英語を学んでいた。あの頃に流行っていたいわゆる「ダブル・スクール」である。もっとも月曜に英会話、水曜にTOEICをそれぞれ別な学校で教わっていたので、「トリプル・スクール」ともいえるのだが。話は水曜に通っていたTOEICコースで起こった。
 ある日のこと、授業の前にちょっとした質問をしようと講師室にP先生を訪ねた。P先生はTOEICコースの人気講師でカナダ人であった。私は2年間にわたってお世話になっていたのだが、個人的に話しをするのはこのときが初めてである。質問を終えるとP先生の方からおもむろに尋ねて来た。「Mr.Sadanariは音楽をやるのか?」−私は買ったばかりの譜面台を手に持っていたのだ。「はい、シンセとコンピューターを繋げたり、ギターを弾いたり...」「へぇ、それなら私と同じだ」。時間がなかったので、その時はそこまで。あまりの偶然に驚きつつ、授業へ。
 そして2時間授業の中休みに、廊下でその続き。そして、ここが、面白かった。「先生はどんなバンドが好きなんですか?」と聞く私に、「そうだなぁ、『ブルー・ナイル』というイギリスのマイナー・バンドが好きだね。まぁ、日本人は知らないと思うけれど...」と、ちょっと自慢げなP先生、ところが私は「あ、なんだ、ブルー・ナイルですか。私も大好きですよ。手に入り難いファースト・アルバムも、最新のセカンド・アルバムも持っています」...その時のP先生の驚いたこと(笑)。しかも、「日本人は知らない」などとエラそうなことを言っておいて、実はP先生はセカンド・アルバムしか持っていなかったのだった、へへーんだ(笑)。「そ、そうか、ファーストを持っているのか。どうだい、そっちは」「私は断然、ファーストの方が好きですねぇ。なにしろ私はファーストで大ファンになりましたから」立場逆転、急にエラそうになる私(笑)。「もし、良かったら、テープに録ってくれないかな...」、めちゃくちゃ丁寧に'Would you mind...'と頼んで来たP先生、よっぽど聴きたかったんだろうなぁ(笑・ちなみに今は全ての作品がCD化され、大手輸入CDショップで簡単に手に入ります)。

 もちろんテープは早急に用意。それを渡すついでに授業終了後、恵比寿の居酒屋に立ち寄って、「日加ロック談義」の続きをやったのだが...これが、良かったなぁ(しみじみ)。
 時まさに'80年代の終わり、パンクだテクノだネオアコだと新しい波が起こった「あの10年」が幕を閉じようとしているころだった。P先生は30代半ば、私は20代の半ばであったが、お互いあの10年をそれぞれの立場で、それぞれの場所で経験して来た。話題はまさに、「80年代ロックの思い出」であった。これが、見事に、共有出来るんだよなぁ...。

 丁度雑誌『ミュージック・マガジン』で「'80年代の名盤」特集を読んだばかりだった。そのことをP先生に話すと、「先月の『ローリング・ストーン』誌も同じ特集だったよ」と教えてくれた。それからは、もう、怒濤のロック話。'70年代末、ニューウェイヴ前夜のトリッキーなバンド−ザ・ナックとか、スーパー・トランプとか−に始まり、一斉に訪れた数々のニュー・バンド、DEVO、トーキング・ヘッズ、B52's、スペシャルズ...実力派ではポリスが良かった、しかも昔の作品ほどヨイ、いやいやXTCこそ魅力的だった。フライング・リザーズなんて実験的で良かったなぁ。エレクトリック・ポップではヒューマンリーグよりもヘヴン17がイカしてたね。U2も良かったけれど、ビッグ・カントリーにも驚いたよ。そのあとのネオアコ勢も面白かったでしょう。アズテック・カメラ、ペイル・ファウンテンズ...実はロータス・イーターズのファンだったんだ。アンテナやミカドも良かった。面白いレーベルが一杯あったね、ラフトレード、ヴァージンはもちろん、クレプスキュール、チェリーレッド...。ベテランも頑張っていたぞ、トッド・ラングレン、イギー・ポップ、ニール・ヤング もテクノしてたっけ?(笑)。プロデューサーはどう?トレバー・ホーン、トニー・マンスフィールド、そう!キャプテン・センシブルの「ハッピー・トーク」には涙が出たよ。映画は観た?『ストップ・メイキング・センス』とか、『ブルー・タートルの夢』とか、ローリー・アンダーソンの『ホーム・オヴ・ブレイヴ』観た時はギターのエイドリアン・ブリューにタマゲタなぁ...。どういうわけだか、「なんといっても、エアロ・スミスは偉大でしょう」なんてところで意気投合してしまったり(笑)。

 あとにも先にも、外人と英語であんなに盛り上がったことはナイ(笑)。あの時には、全く「言葉の壁」を感じなかった。2時間か3時間か、ずっと英語で、休む間もなく喋っていた。話したいことが山ほどあって、文法も、活用形も、無視して話していたかもしれない。でも、通じていた(多分)。まぁ半分は英語のバンド名の羅列だったと言えばそこまでだが(笑)、でも、「壁」のない感じ、話題を共有している感じが確実にあった。なにしろ9年も前のこと、きっと聞くに耐えないようなブロークン・イングリッシュだったと思うが...。

 その3カ月後、大学卒業と同時に津田も「卒業」、最後は日本人アーティストの「実力」を教えてあげたくて(自慢したくて?)ムーンライダーズや坂本龍一を入れたテープに簡単な英語のレビューを付けて渡した。P先生から「日本人アーティストで驚くのはなんと言ってもアレンジ力だね」という感想を聴き...私は津田を去って行った。
 エルヴィス・コステロとダン・エイクロイドを足して2で割った様なP先生−いかにも音楽好きという感じである。ちなみに2人ともファンとか。とくにエイクロイドはカナダ人なので非常に自慢していた−今でも元気でいらっしゃるのだろうか。

 こんな体験が、実は英語ページのルーツになっている。世界の人達と共有出来るものであり、かつちょっとした情報差もある。それらをやりとりしているうちにあっと言う間に親しくなる。それが音楽趣味の魅力であろう。
 そして、こうした「シンクロニシティ−同時性」を究(きわ)めたものが、このインターネットなのではないか、とも思う。世代も、国境も超えた「同好の士」がコンピューター・ネットワークを通じて表現し、発信し、コンタクトし合っている(検索も容易だ)。改めて考えてみると、私はインターネットのなかった時代から同じようなことをやっていたんだなぁ。なるほど、私にとってはまさにうってつけのメディアだったわけだ。創刊1年目にして、インターネットと我が身を考えるサダナリであった。なるほどなぁ...。

 最近盛り上がっているのが、スウェーデンのバカラック愛好家、ステファンとのやりとりである。彼は「The Hitmaker Archive」という「バカラックの曲を誰が、どこでカヴァーしているか」についての巨大な検索ページを運営している。世界中のアーティストを網羅するその熱心さには頭のさがる思いである。
 そしてどうやら、日本編集盤のバカラック・カヴァー集というのが、外国人からするとなかなかの魅力らしい。神秘の国・日本は、諸外国のレコード・コレクターの間でもやはり神秘的な存在のようだ(笑)。「凄いCDが出ているらしいというウワサばかりが伝わって来るんだ。でも確かめようがなくて、途方に暮れているんだよ。どうにか助けてくれないか」と、彼から私にコンタクトして来たのだ。アルバム・タイトルをキーに藁にもすがる気持ちで(スウェーデンにもそういう例えがあるかどうか判らないが)日本のInfoseekで検索をしたとか。それで私のバカラック特集に辿り着いた、というわけだ。
 切実な感じがひしひしと伝わってくる彼のメールに打たれて、何枚かのCDのインデックスを教えたところ、彼は件のページに日本特派員(?)として私の名前を載せてくれた。いやはやなんとも、誠に光栄な話、日本人ではただ一人の「栄誉」である。「オフ会」や「チャット」など、パソコン通信チックな「お付き合い」は苦手だけれど、インターネットならではの、こんな真剣なやりとりならばいくらでもOKだ。

 ステファン、これからも少しずつ情報を提供するよ。そうそう、君が気にしている'93年6月にやったピチカートのTVライヴだけど...。




−登場したレコード−



'A walk across the rooftops'
The Blue Nile
CD5087 LINN
1983
'HATS'
The Blue Nile
LKHCD2 LINN
1989







このコーナーは短いサイクルで更新されます



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