99/12/20 第五回 ベストアルバム 1990-1999 Selected by Sadanari Deluxe |
− 晴れたらいいねの年に、ベテランの快作 −
■ 外向きXTCの快作一発 [ ROCK ] しかし一体どうしたことだろう。南米大陸ブラジルで大ヴェテラン、セル・メンがピチピチのニュー・サウンドを送り出したこの年、大英帝国が誇るヒネクレ・ポップ・バンド、XTCも大物ガス・ダッジョン・プロデュースのもと「え、これがXTC!?」と言いたくなるようなオープン・マインドな新作『ノンサッチ』を発表した。 しかし心から「オープン」と言えるのは冒頭の3曲くらいかなぁ。アルバムが続くにつれて、「やっぱりXTC」的なネバ〜っとしたアレンジが登場して、安心するやら、諦めるやら(笑)。熱心なファンは8曲目「クロコダイル」あたりでさぞかしニヤリとしたことであろう。フフフ。 '90年前後のXTCといえば、'86年発表の『スカイラーキング』に尽きる、というのが"XTCマニアックス"諸氏の常識となっている様だが、高校入学直後に聴いた『ブラック・シー』('80年)のパキパキ感でXTCにハマった私としては前作にあたる『オレンジズ・アンド・レモンズ』('89年)や、この『ノッンサッチ』も高く評価したい。 XTCと言えばかなりのビッグ・ネイム。ロックに向上心のある若人なら「ちょっと聴いてみたいッス」というバンドだろう。しかしタイトル数も多く、中には非常に地味な作品もある。そんなガッツのあるヤングに、この判り易いXTCをお薦めしたい。 |
■ デヴィッド・バーンの逆転満塁場外ホームラン [ ROCK , WORLD ] まったくどうしたことだろう(またかよ)。セルメンが、XTCがユニークな新作をリリースしたこの年。本場アメリカでは15年以上のキャリアを持つ奇才、デヴィッド・バーンが「快作」と言えるこの『uh-oh』を発表した。しかし、これは他の2枚とは違い、なんというか、「雪辱戦」の様な作品だ。 バーンは'89年発表のソロ『レイ・モモ』で行ったラテン音楽の引用で世界中を混乱と困惑に陥れた。なんかヒンシュク。面白い試みではあったが、この『レイ・モモ』とそれに続くワールド・ツアーは彼のキャリアの中では「問題作」とされている。 私はいずれもリアル・タイムで体験してしまったのだが、うむ、'89年10月の渋谷公会堂、サウンドは豪華なのになぜか、ノレなかった。全員立っているのに踊れず。途中で一曲だけ歌ったブラジルの歌姫、マルガレッチ・メネージスのランバーダで場内熱狂となったのが−ホンモノと引用の対比として−かなり皮肉であった。それも含めて面白い体験ではあったけどね。 そんな苦難の季節(?)を乗り越えて、バーン復活。ここにあるのは伝統音楽の中途半端な引用ではなく、あくまでバーンの音楽である。ラテン・フレーバーにプラスして、トーキング・ヘッズ風のヒネクレ・ロック・リズムにコミカルなギター。そう!こんな風に「自分の音楽」を演ってくれれば良かったんだよ。バーン先生。 前作から一転してアルバムは好評。ライヴも盛況で、その模様はドキュメンタリー映画『ビトウィーン・ザ・ティース』となった。私は'95年にこの映画の初日舞台挨拶を観に行ったけれど、バーン本人も上機嫌だったなぁ。 このアルバム、本当にお気に入りなので、'97年8月の「サダ・デラ」スタート時にもレコメンドした。「ジャケットに惹かれて買ったら大正解でした」というメールを女性の読者から頂いた時は嬉しかったな。 私が好きなのは後半の「ア・ミリオン・マイルズ・アウェイ」と、ラストの名曲「サムバディ」。シュールな歌詞になぜか人間の無常観が漂う(そしてアレンジが秀逸!)。私がこの文章を書いている今、バーンは地球の裏側で何をやっているのだろうか...なんてことも考えてしまう、感慨深い曲である。 |
■ '92年のベスト・シングルはこのアルバムに [ HOUSE , TECHNO ] えーと、TVの深夜番組でBGMになっていて、画面に出たアーティスト名を控えておいて買った、だったな。実はこのアルバムの1曲目「クローサー」はこの年のマイ・ベスト・シングルでもある。 この頃のDJサウンドというのは2系統あり。ひとつは'70年代のアナログ盤から数小節、あるいはほとんど1曲ごっそりとイタダき、それにリズムを重ねて一丁アガリ、みたいなヤツ。もうひとつはシンセを使ってきっちりと打ち込んで演奏するもの。このミスター・フィンガーズは後者に属し、私も後者に興味を抱いていた。前者は俺にも簡単に出来ちまうからなぁ。自宅の機材で(苦笑)。 それなりにヒットした「クローサー」であるが、良く聴くと随分シンプルなアレンジで、バックはシンセと簡単なリズムだけだ。そしてヴォーカル、コーラスが乗る。削ぎ落とされたサウンドが逆に効果的だったのだろう。 こうしたシンプルなテクノ、ハウスに秀作の多い時期でもあった。打ち込みにフルートを乗せたフランキー・ナックルズの「ホイッスル・ソング」('91年)なども懐かしい。 |
■ vol.2なき無念のアルバム... [ CHINDON ] 篠田昌巳氏の代表作『コンポステラ』のレビューではちょっと思い入れが強過ぎて、冷静な紹介が出来なかった。ここで改めて、氏の紹介と、追悼を。 篠田氏は'58年、東京の生まれ。'77年に伝説のフリージャズ集団「生活向上委員会大管弦楽団」の結成に参加。'80年からはニューウェイヴ系ジャズユニット「PUNGO」で活躍した。私は両方とも聴いたことがあるが、前者は今でいえば「渋さ知らズ」のようなハチャメチャ・ジャズ、後者はPhewやNo New Yorkなどに通じる暗黒サウンドだった(注・"生向委"のメンバーの一部は実際に後年"渋さ"にスライド、篠田氏も初期の渋さに参加している)。 '83年からの「じゃがたら」での活動が有名だが、期を同じくして、30年の歴史を持つちんどんの「長谷川宣伝社」楽士として演奏活動を開始する。加入のきっかけは失恋し、失意のもと歩いていた下北沢の街角で偶然流れて来たちんどんの音色に、意味もなく涙がボロボロと流れて来て...だったそうだ。 その場で参加を申し込み、以降自らのジャズ・コンボ、じゃがたらでの活動、前出のコンポステラでの活動と並行して、ちんどん屋さんの若き楽士としてパチンコ屋の宣伝や地方のお祭りなどで大活躍することになる。 そして順風満帆と思われた'92年12月、突然の死。実はかねてから心臓が弱く、じゃがたらの激しいライヴのあとなど、楽屋で冷汗を流しながら薬を飲んでいたそうだ。その死も...音楽仲間から聴いた噂話ではあるが、多忙で相手の出来ないガールフレンドに"精一杯のサービス"とばかり底冷えのディズニーランドに出掛け、心臓に過度な負担をかけて...が引き金だったらしい。 コンポステラのレビューで書いた通り、篠田氏の死が本当に取り返しの付かないものである所以は、「唯一無二の存在であったこと」に尽きる。身をもって知り得たちんどんの世界、ちんどんの音楽を我々に熱く語り、日本語と英語からなる分厚いブックレットの付いたこのCD『東京チンドン』を出し、遂には渋谷のクラブ・クアトロに長谷川宣伝社で出演。若者相手にライブ・ハウスに於ける"ちんどんのライヴ"までも成功させてしまった。その、氏の、消滅。この無念さは筆舌に尽くし難いものがある。まさに「これから」であったのに...。 「さらに続けて「東京チンドンvol.2」として、もう1セット2枚組CDを出す予定になっていて、そちらは長谷川宣伝社社長とクラリネットの小林静夫さんを中心に、スタジオで録音したものでそれぞれまとめる予定です−長谷川宣伝社楽士・篠田昌巳」(解説から) '90年代、日本ジャズ界の巨大な損失、篠田昌巳さんのご冥福を心からお祈り致します。しかしこれでこのまま、ひとつのムーヴメントが消え去ってしまってもいいのだろうか。いくつかの若手チンドン・パフォーマーは見かけるが、篠田氏の冷静さ、ジャズとのパイプなどには及ばない様にも思う。 |
・毛利さん、エンデバーで宇宙に、宇宙中継で「朝立ち」発言 ・バルセロナ・オリンピック、開会式に坂本龍一登場、なかなか感動的 ・サダナリ担当新工場稼働開始、ジャズを聴きながらクールな深夜残業 ・100万出してバリトン購入、ジャズ地獄へ歩み始める(26〜27歳) |
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