99/08/24
第四回
ヴァン・ダイク・パークスを
発見せよ!

日本唯一の徹底研究ページ




■ Van Dyke no Rekishi - Biography ■








 「フラワー・パワーを手に入れたよ」 

Van Dyke Parks フォークからロックへ 


 Van Dyke Parks−ヴァン・ダイク・パークスは1943年1月3日、4人兄弟の末っ子としてアメリカ南東部の街、ミシシッピ州ハティスバーグに生まれました(古くは'41年生まれ説もありましたが、現在は公式に'43年生まれ)。父親はミュージシャンで「マーチ王」と云われるジョン・フィリップ・スーザの楽隊、60シルヴァー・トランペッツのメンバーでした。
 幼少期の数年ををルイジアナで過ごしたのち、ニューヨークのとなり、ニュージャージィ州に移りここで学生時代を過ごします。'51年にニュージャージィ州プリンストンのコロンバス・ボーイスクワイア・スクールに入学、この頃から子役スターとして頭角を顕します。活動の舞台はニューヨークのメトロポリタン・オペラの他、NBCテレビのショー番組や、MGM映画など。有名な出演作品にモナコ王妃となったグレース・ケリーの最後の主演映画『白鳥』(日本公開'58年)があります。
 余談ですが、この子役時代のヴァン・ダイクについてはロック・ファンの間で諸説が入り乱れており、中でも有名なのが『風と共に去りぬ』('39)に出てきた赤ん坊がヴァン・ダイクだというもの。これについてはヴァン・ダイク自ら「あれは私じゃないよ」と語っています。どうも頻繁に言われてウンザリしているらしく、ごく最近のインタヴューで質問されていないのに自ら切り出して「やっていないよ」と語っていたのがユーモラスでした。そりゃそうだ、あの映画は'39年公開、撮影はヴァン・ダイクが生まれる何年も前だ(笑)。


MGM映画 『白鳥』より

左から二番目がヴァン・ダイク
隣はグレース・ケリー


 '58年にカーネギー工科大学(現カーネギー・メロン大学)に入学、このころから役者よりもミュージシャンとしての活動が目立って来ます。大学ではクラシック・ピアノを専攻しますが、実はそれまでのメインの楽器はギターだったそうです。'50年代終わりのあるとき、ギタリスト達のテクニック競争に疲れたヴァン・ダイクは「誰よりもうまく弾けた」と語るギターを棄て、ピアノとアレンジに自分の道を見つけた...ここでワン・アンド・オンリーのユニークなピアニストであり、そして希代のアレンジャーとしてのヴァン・ダイクが誕生します。同時に彼は「フラワー・パワーを手に入れた」とも語りました。
 彼の経歴で興味深いのは「西海岸を代表するピアニスト、アレンジャー」として有名なヴァン・ダイクが、実はかつては「東海岸のギタリスト」であったという点でしょう。スティール弦への移行と同時にテクニック至上主義に走るギターの世界を離れ、ピアノとアレンジでで自由な表現を求め出したヴァン・ダイクは、更に大学もドロップ・アウトして、西海岸・カリフォルニアに移ります。「(ギターをやめて)競争という概念を捨てたんだ。それ以来協力して仕事を行うというスタンスをとるようになって随分楽になったよ」とヴァン・ダイクは語ります。

 そしてこの西海岸に於いてプロ・ミュージシャンとしてのキャリアがスタートします。まず6歳年上の兄・カースン・パークスと共に"グリーンウッド・カウンティー・シンガーズ"というモダン・フォーク・グループの一員となります。このグループは数枚のアルバムを残しており、そのジャケットには若きヴァン・ダイクと兄・カースンの姿もしっかり写っています(しかし貴重盤ゆえ未聴)。


兄・カースン・パークス(左)と
ヴァン・ダイク


 同じ頃、イージー・ライダーズブランデー・ワイン・シンガーズといったグループにも参加しますが、やはりグループの一員として納まるキャラクターではなかった。'64年、MGMレコードからシングル「カム・トゥ・ザ・サンシャイン」でソロ・デヴューを飾ります。この曲はハーパース・ビザールのカヴァー・ヴァージョンで知られていますが、数年前にヴァン・ダイクが歌うオリジナル・ヴァージョンを入手、これが、名演!3分足らずの小曲ですが、イントロからヴォーカル、アレンジにエフェクトまで、ヴァン・ダイクの魅力が凝縮された見事なものでした。まさに記念すべき第一曲、天才は最初から天才だった(?)。ちなみにこの曲、アリゾナの州都フェニックスで16位まで上がる「局地的ヒット」となっています。
 しかし親がミュージシャンだったせいか、子役としてショービズに接していたせいか、何とも「早熟な天才」という感じですね。子役時代にはメトロポリタン・オペラでトスカニーニの指揮のもとで歌ったというし、カウンティー・シンガーズ時代が20歳前後、ソロ・デヴューもわずか23歳の時です。

 また西海岸移住から「カム・トゥ・ザ・サンシャイン」あたりまで、ごく初期のヴァン・ダイクはプロ・ミュージシャンとして活動して行くためのアドヴァイスを、イージー・ライダーズにいたソングライター、テリー・ギルキスンから数多く受けています。ヴァン・ダイクの経歴というのは実にユニークで、幾つかの時代を影響力の強いミュージシャンやプロデューサーと出会う事によって築いているのです。もちろん兄、カーソンの影響もあったでしょうが、ミュージシャンとしてのスタートについてはこのギルキスンの力が大きかった様です。なお彼とは遙か後年、'83年のアルバム『JUMP!』に於いて共作を行っています。


「カム・トゥ・ザ・サンシャイン」の頃

MGMが用意したアーティスト写真


 そして'64年頃にハリウッドでレコード・プロデューサーのテリー・メルチャー(歌手兼女優ドリス・デイの息子)と知り合い、キーボード・プレーヤーとして数々のレコーディングに参加し始めます。代表的なものにザ・バーズのヒット曲「霧の五次元」('66)があります。あの曲のフォーキーかつサイケデリックなオルガンはヴァン・ダイクのものです。一時はキーボーディストとしてバーズに参加、という話もあったらしいのですが、「ライヴが苦手だ」という理由でその申し入れを断っています。同様のエピソードはCS&Nとの間にもあり、もしかしたら"CSN&V"になっていたもしれません(すると最終的には"CSNV&Y"だったのかもしれない。ヤタラ長イ!)。
 バンド・サウンド全盛のこの頃、ヴァン・ダイク程のミュージシャンがいずれのバンドにも属さずにあえてソロ・アーティストとしての道を選んだというのは少々興味深くもあります。この時代のバンド活動−コンスタントなシングル制作とツアー活動−というのはそれなりの経済的安定も意味し、なぜその道を選ばなかったのかと少々疑問でもあります。
 それに対しては前述の「ライヴが苦手」と併せて、もうひつの理由が述べられています。時まさにビートルズ全盛期「イギリスからやって来た熱病にみんな冒されて(ロック・グループの多くが)アメリカ独自の音楽性を見失っていたことに不満を感じていたんだ」−ごく数年前のヴァン・ダイクのインタヴューです。彼が目指していたものはあくまでもアメリカ人による、アメリカ人のための音楽だったわけです。





 西海岸の巨大な蜃気楼 

Van Dyke Parks & Brian Wilson made a Simile, but... 


 さて、ここで、歴史的な出逢い。ヴァン・ダイクは前出のテリー・メルチャーのガーデン・パーティーであるミュージシャンを紹介されます。彼の名はブライアン・ウイルソン、言わずと知れたビーチボーイズのリーダー兼ベーシスト兼天才。'65年頃のことらしいので、ビーチ・ボーイズの歴史からすると...どう説明していいのかわからないくらい微妙な時期にあたります。
 あまり詳しく書くとビーチボーイズ・ページになってしまいますが、実はこの時期、ビーチボーイズ及びブライアンはゆらゆらと揺れるトランプ・タワーの様な状況だったのです。
 ご存じ「サーフィンUSA」や「サーファー・ガール」「ファン・ファン・ファン」など西海岸の青空と海!(あるいはイカしたドライヴ)といったパブリック・イメージを脱し、より音楽的な方向に進もうとしたブライアンに対し、レコード会社が要求したのはあくまれも順調なセールス、しかも1位になることだった(そのくせギャランティの支払いでモメてもいた)。内からはこのプレッシャー、外から、英国からはビートルズが登場し脅威にもなっていた。更に兄弟や親戚を中心に構成されていたメンバー達もブライアンの方向性に付いて行けず、バンド内にも不協和音が生じていた...。
 最も悲劇的だったのはブライアンの神経が人一倍繊細で、こうした重圧に耐えられなかったことでしょう。その生い立ちによって育んでしまった精神的な弱さ、そして過度のドラッグ摂取も作用して、ヨーロッパ・ツアー中のある日、飛行機の中でブライアンは精神錯乱状態に陥ります。「もう限界だ」と言いながら泣き出してしまった彼はツアー・メンバーを外れ、たったひとりでアルバム制作を行いました。
 そして生まれたのがとても同じバンドのものとは思えない様な深遠な作品『ペット・サウンズ』('66)ですが、同時にこれはアメリカン・ロックの名盤中の名盤と現代まで語り継がれることにもなります。
 '65年から'66年にかけて、日本を含むワールド・ツアーに参加せず、西海岸のスタジオでほとんどのパートをひとりで録ってしまったブライアンに向かってメンバーのマイク・ラヴが発した言葉「こんなもの誰が聴くんだ?犬か?」は超有名。その言葉を受けて自虐的な意味でタイトルを『ペット・サウンズ』としたという説もあります。

 少々長くなりましたが、この背景は外せない。こうしたあまりにも微妙な局面に差しかかっていたブライアンの前に、同じ様な指向性を持ち、極めてユニークなソング・ライティングとアレンジの才を持つヴァン・ダイクが登場した、というわけです。
 意気投合した2人はまず『ペット・サウンズ』レコーディング時に古いフォークをカヴァーした「スプール・ジョンB」でコラボレーションを行い...更に深刻な状況をもたらします。
 ゲスト・ミュージシャンの域を超え、"6人目のビーチボーイズ"的なポジションで次回作のソングライティングに、アレンジにと活躍したヴァン・ダイクですが、その先に待っていたのは「発売中止」というアクシデントでした。幻のアルバムの名は『スマイル』、全世界のロック史上最も有名な「発売中止アルバム」です。発売中止に至る経緯はのちほど詳しくご説明しましょう。
 スタジオの片隅に残された膨大な量のテープは少しずつ流出し、私の手元にも一枚のブートレグ(海賊盤)があります。あまりにも断片的過ぎて的確な感想は述べにくいのですが、ヴァン・ダイクとブライアンが追い求めた「古の西部へタイム・トリップ、アメリカの風物と洒脱」(ブライアンの言葉)といったものの残骸を、わずかながら感じることは出来ます。またここで前述したヴァン・ダイクの「アメリカ独自の音楽性」という言葉との符合が見られ、興味深くもあります。


ブライアン(左)とヴァン・ダイク

『スマイル』レーコディングの頃


 しかしこのスマイル・セッションは全てが幻に終わってしまった訳ではありません。先行シングルの様な形で発表された全米全英No.1ヒット「グッド・ヴァイブレーション」はブライアンが残した最高傑作であり、これにヴァン・ダイクも参加しています(セッションのみ。作曲はブライアンとマイク・ラヴ)。また「英雄と悪漢」、「ヴェジタブルズ」など何曲かが次のアルバム『スマイリー・スマイル』('67)に、「サーフズ・アップ」が'71年発表の同名アルバム収録されました。
 ヴァン・ダイクはこの一件のあと、ビーチボーイズの傍から去ります。「私が彼らと仕事を続けると問題の元となると気が付いたので、グループを去ることにした」、近年に語られたヴァン・ダイクの言葉です。ちなみにこのあとブライアンはまたしてもコワレてしまい、心身共に完全復調を果たすのは...いつだ?'88年頃かねぇ...。
 このヴァン・ダイクとブライアンのパートナー・シップはそれから30年以上経た'90年代の半ばに復活、朗々とした名盤を生むことになるのですがそれは後ほどご説明しましょう。

 なおこの頃にベートーベンの「第九」をロック風にアレンジしたシングル「No.9」をリリース。これは日本でもグラモフォンから同時発売されてちょっとした話題になったそうです。





 ハリウッド・ロックの魔法使い 

Van Dyke Parks バーバンク・サウンドを築く 


 さて、更にヴァン・ダイクは新たな一時代を築いて行きます。こうしたブライアンとの日々と前後して、ワーナー・ブラザーズ・レコードのプロデューサー、レニー・ワロンカーと知り合います。えーと...4人目の、重要人物。
 当時のワーナーは決して望ましい状況ではなかった様です。ピーター、ポール&マリーでピークを迎えた同社ですが、フォーク・ブームの終焉、ビートルズの登場という時代の変化について行けず、閉塞的な状態だったと言われています。レニー・ワロンカーはリバティ・レコードの創始者、サイ・ワロンカーの息子。ヴァン・ダイク曰く「会社に影響を与え、深い眠りから醒ますような力が必要」になりレニーが登場、以降その彼とヴァン・ダイクでひとつの時代を気づいて行くことになります。

 ヴァン・ダイクはソングライター/アレンジャーとしてワーナーと契約、まず最初の大仕事は"ティキス"なるサエない名前のバンドに"ハーパース・ビザール"というゴージャスかつシニカルな名前を与え、極上のポップ・アルバムで再デヴューをさせることでした。ヴァン・ダイクは自らのデヴュー曲「カム・トゥ・ザ・サンシャイン」を提供すると同時に、ピアノも演奏。そして誕生したのが名盤の誉れ高きハーパースのファースト・アルバム『フィーリン・グルーヴィー』('67)です。
 ハーパースのアルバムでヴァン・ダイクが狙ったのは(例によって)古のアメリカの復活。詳しくは後ほどの参加アルバム紹介に譲りますが、古い映画音楽やクラシック、コール・ポーターのカヴァーなどを行っています。
 また同年には女性ドラマー兼ヴォーカリスト、ジャン・エリコを配した4人組"モジョ・メン"のプロデュースも行い、ヴァン・ダイク・テイストたっぷりの「シット・ダウン、アイ・シンク・アイ・ラヴ・ユー」('67)をヒットさせます。
 メンバーのポール・カーシオが当時のヴァン・ダイクについて貴著なコメントを残しています。「ヴァン・ダイクがワーナーの社運を握っていたようなものだからね。スタジオ内の作業は彼に全権が委ねられていたんだ。彼は徹夜で書き上げた譜面を携えてスタジオに入って来ると、それを床いっぱいに広げて自らも地べたに座り、その位置から製作の指揮を執ってたよ」。音感の鋭さ、アイディアの奇抜さに惹かれたポールは、ヴァン・ダイクについて「彼と仕事をしていると飽きなかったよ。あの人は本物の天才だ」と語っています。

 ワーナーでの活躍は更に続き、ハーパース、モジョ・メンと同様に"ボー・ブラメルズ"というバンドのプロデュースも行っています。こうしたバンド関係のサウンド・メイクの他、ヴァン・ダイクはソロ・アーティストのデビューにも携わっています。'68年にはアメリカきってのニヒリスト、ランディ・ニューマン、'71年には才人、ライ・クーダのデビュー・アルバムをプロデュース。ランディのアルバムは今聴くとなんとも地味な仕上がりなのですが、ライの作品は実にカラフル!但し少々オーヴァー・プロデュース過ぎて、次回作からはライの意向でピアニストとしての参加に抑えられた、という逸話も残っています。
 ヴァン・ダイク=ワロンカーによるハーパースからライあたりまでのサウンドを、ワーナー・ブラザーズ・レコードのあった土地にかけて「バーバンク・サウンド」と呼びます。個人的には、そうですね、ハーパースあたりのほわーんとした雰囲気に、西海岸の空気を感じまね(行ったことないケド)。

 また、同じく西海岸を拠点としていたA&Mレコードにもいくつかの名盤を残しています。シニカルな詩人、フィル・オクスや、ソフト・ロックの名盤、"ロジャー・ニコルス・アンド・スモール・サークル・オヴ・フレンズ"の同名アルバムなどがそれです。こちらにはレニーのかわりにトミー・リピューマという鬼才がいて...アメリカのロック界が本当にホットだった時代ですね(リピューマは現在ジャズのGRPレーベル社長)。


 全く唐突ですが、昭和30年代の日本映画の黄金期にも藤本真澄、滝村和男などの名プロデューサーが活躍していました。黄金時代というのは、名プロデューサーががんばっている時代なのかもしれません...。





 そして生きた伝説に ... 

Van Dyke Parks ワン・アンド・オンリーのソロ活動 


 さて、'60年代の終わりからこうしたプロデュース・ワークにプラスして、いよいよ自らのソロ・アーティスト活動も本格化します。記念すべきファースト・ソロ・アルバムは'68年発表の『ソング・サイクル』。ドイツ・ロマン派の「連作歌曲」から影響を受けたというこのアルバムは、全面的なオーケストラの導入とハープやバラライカ、エフェクトを多用したピアノなど、通常のロック、ポップスのフォーマットからは大きくかけ離れたもので、賛否両論を巻き起こしました。
 '60年代ロック的なポップ・アルバムではありませんが、そのアレンジ、エフェクトのセンスは驚嘆すべきものがあり、世界中のサウンド・クリエイターの間ではビートルズの『サージャント・ペッパーズ...』、フランク・ザッパの『フリーク・アウト』と並ぶコンセプト・アルバムの名盤と云われています。

 続くアルバムは'72年発売の『ディスカヴァー・アメリカ』。ここでは一転してアメリカ南東部のコッテリしたバンド・サウンドを聴かせています。しかしそこはヴァン・ダイクのこと、一筋縄には行かない。明快なメロディーのポップチューンにも捻りきったギターやストリングスが重ねられていました。
 またこのアルバムでは南東部のテイストと同時にカリブ海を渡った、トリニダッド・トバコへの想いも込められており、スティール・ドラムでエッソ・トリニダッド・スティール・バンドも参加。アルバムのラストは彼らの演奏による合衆国国歌「星条旗よ永遠なれ」で締めくくられています。このトリニダッドへのこだわりは、当時のアメリカ事情とあわせると、色々と複雑な意味も読み取れますが、詳しくはのちほど、アルバム紹介にて。
 なおこのアルバムの製作中に、レコーディングの為に渡米していた"はっぴいえんど"のプロデュースも行いました。そこで録られたのがはっぴいえんどラスト・アルバムの最終曲「さよならニッポンさよならアメリカ」('72)です。

 3年後の'75年、サード・アルバム『クラング・オヴ・ザ・ヤンキー・リーパー』発表。ヴァン・ダイクのアルバム中、最も聴き易く、ポップ・センス大爆発の逸品です。前作でもスティール・バンドの参加が見られましたが、このころのヴァン・ダイクはカリビアン・サウンド、中でもカリプソに傾倒。そこにはまたひとりのアーティストとの出会いがありました。トリニダッド出身のパンマン(スティール・ドラム奏者)、ロバート・グリニッジです。
 ヴァン・ダイク=グリニッジのコンビはこの他にもタジ・マハルの傑作『ミュージック・ファ・ヤ』('77)や、カリプソのご本家かつ王様、マイティー・スパロウの『ホット・アンド・スウィート』('74)、さらには日本のフォーク歌手、高田渡の『フィッシン・オン・サンデー』('75)などにも参加しています。中でもスパロウの『ホット...』は『クラング...』に良く似たパワー溢れる傑作で、必聴でしょう!(ごく最近、日本にて世界初CD化)。
 もしヴァン・ダイクを一枚だけというならば、間違いなくこの『クラング...』をお薦めします。徹底的平和主義者にして、アレンジの大天才、ヴァン・ダイクの手によるハッピーになるための音楽がここにあります。なお、このアルバムのラストはロック風オーケストラ・アレンジによるパッフェルベルの「カノン」。この一曲だけでも聴く価値アリ!です。


『ヤンキー・リーパー』の頃

雰囲気たっぷりの
とてもいい写真


 '68年から'75年にリリースされたこの3枚のアルバムで、ヴァン・ダイクは熱狂的な信奉者を得て、「生きた伝説」となります。'70年代中盤から'80年代にかけてはプロデュース・ワークが中心となり、ニルソンやニコレット・ラーソン、シェール、リンゴ・スターなどのアルバムに参加します。またこの頃から映画音楽にも本格的に取り組み始め、'80年のディズニー映画『ポパイ』(主演/ロビン・ウイリアムス)の他、『クラブ・パラダイス』('86年)、『アラモ・ベイ』('86年、監督/ルイ・マル)、『カジュアル・セックス?』('88年)などで彼のオーケストレーションを聴くことが出来ます。
 さらにこれは「隠れた功績」なのですが、このころワーナーのオーディオ&ヴィジュアル部門で采配を奮い、今のMTVの基礎を築いたそうです。プロモーション・フィルム製作でかかわったアーティストにジョニ・ミッチェルやキャプテン・ビーフハート、アース・ウインド&ファイアらがいます。

 そして、'83年に実に8年振りとなるアルバム『JUMP!』をリリース。「ブレア・ラビット」というアメリカの黒人民話をモチーフにしたこのアルバムでは、全曲オーケストラによるミュージカル映画風のサウンドを聴かせました。
 さらに'88年7月には総勢18名からなる「ザ・ディスカヴァー・アメリカ・オーケストラ」で初来日(細野晴臣、ヤン富田ら一部メンバーは日本から参加)。このアルバムを中心としたステージで日本のファンを魅了しています(私も観た。嬉しくて泣いた)。

 翌'89年に日米関係をテーマにした『トウキョウ・ローズ』を発表。サウンド的には中規模のオーケストレーションに琴などの和楽器が加わった少々エキゾチックなものと、フォスターを思わせるアーリー・アメリカン調のポップ・チューンが同居したものでした。
 その他、'80年代の活動としてはちょっと意外なU2『魂の叫び』でのストリングス・アレンジもあります。また更に意外な取り合わせとして、R.E.M.からもアルバムのプロデュースを依頼されたがこちらは残念ながら実現はしませんでした。

 '90年代のビッグ・ニュースは3つでしょう。まず'95年リリースのアルバム『オレンジ・クレイト・アート』。ヴァン・ダイクとブライアン・ウイルソンの連名になっているこの作品、ヴァン・ダイクのオリジナルにかつての盟友、ブライアンがヴォーカルをつけたコラボレーション作品です。サウンド的には'60年代から目指して来た「古き良きアメリカ」の集大成ともいえるものでした。
 追って発売されたブライアンの新作ソロ『イマジネイション』('98)はチープなシンセなども飛び出すちょっと微妙な内容だったのですが、こちらの『オレンジ...』の方はあくまでアコースティックにまとめられてており、ブライアン・ファンの方々には申し訳ないですが、ヴァン・ダイク派の私はこの『オレンジ...』の方を絶対的に支持します。
 '98年には初のライヴ・アルバム『ムーンライティング』もリリース。最新アルバムである『オレンジ...』を中心にしているものの、'70年代の往年の名曲も含まれており、ベスト盤的な意味合いもありました。通常のバンド編成にストリングス・アンサンブルが加わっているところがヴァン・ダイクならではでしょう。

 そして!'99年6月、ピアノ&ヴォーカル/ヴァン・ダイク・パークス、ギター/グラント・ガイスマン、ベース/リーランド・スクラーのトリオにより来日!'91年9月に細野晴臣コーディネイトによるライヴ・イヴェント「東京ムラムラ」にゲスト出演していますが(共演にマイケル・ナイマン、チーフタンズ、カルロス・ダレッシオ他)、単独の来日ライヴは実に11年ぶり。ここに記した全ての時代の曲、ビーチボーイズの「英雄と悪漢」から、『ソング・サイクル』の代表的ナンバー「カラーズ」、『ディスカヴァー・アメリカ』収録の「F.D.R.・イン・トリニダッド」、そして最新作『オレンジ・クレイト・アート』に至るまでを一大パノラマの如く奏でてくれました。
 最終日の東京・六本木、スイート・ベイジルは超満員。上機嫌のヴァン・ダイクはラストでステージを降り、拍手の鳴りやまない客席をゆっくりと一周。握手を求める者、耐えきらずに抱きつく者(笑)、そして最後には...詳しくはのちほど、ライヴ・レポートにて。





 以上が1941年から最新1999年までのヴァン・ダイク・パークスです。いくつかの成功と、いくつかの幻。しかしその背景には、いつも「古き良きアメリカ」がありました。そしてそれは、愛国主義者の狂信的、軍国的な想いではなく、あまりにも無垢で純粋な、平和主義者のそれです。同時にそれはいたずらに叙情に流れことはなく、適度なシニカルさをもって表現されていることも忘れてはなりません。そのスタンスこそがヴァン・ダイクなのでしょう。

 しかしこうやって一気に書くと、なんとも面白いですね。テリー・ギルキソンとのモダン・フォーク時代に始まり、テリー・メルチャーとのセッション・ミュージシャン時代、ブライアン・ウイルソンとの日々、レニー・ワロンカーと築いたバーバンク・サウンド、ロバート・グリニッジと創り出したカリプソの数々...そして今は再び、ワロンカー、ブライアンとのコラボーレションに還って来ました。お帰りなさい、ミスター・パークス。


米タワー・レコード発行の
『PULSE!』 1995年11月号表紙
ヴァン・ダイクとブライアン

Welcome back !


 更にここで、ふと考えると、モダンフォーク時代は実に40年も前の'50年代終盤、そして'60年代、'70年代...と、ほとんどロックの歴史全てに関わっていると言えます。そして、いまだ、現役。例えばつい先日に「GAP」のTVCMで歌っていたピアニストの彼、ルーファス・ウェインライトのプロデュースも実はこのヴァン・ダイクです(ワロンカーも参加)。
 また南東部ミシシッピに生まれたヴァン・ダイクがルイジアナを経て、東海岸、西海岸と移り住んで行ったことも、彼の音楽の極めてアメリカ的かつヴァラエティに富んだサウンドに深い関係があるように思えます。

 ともあれ、「生きた伝説」と云われるヴァン・ダイクの存在を、どうにか、感じて頂けましたでしょうか。





 さぁ、お待たせしました!次ページにて、ヴァン・ダイクのソロ・アルバムご紹介。楽しい、美しい、ダン・ダイクの世界を満喫して下さい。下の若き日のヴァン・ダイクのボタンをクリックしてお進み下さい




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