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97/12/07
第三回
バート・バカラックを
愉(たの)しむ
来日記念徹底研究



Burt Bacharach & Hal David


■ハル・デイヴィッドって誰?

 信じられないことです。62年から71年までの間にバカラック=デイヴィッドのコンビがヒットチャートに送り込んだ曲は−ディオンヌ・ワーウィックが歌ったものだけで−39曲にもなるそうです。その他の歌手の曲まで入れたら一体何曲になるのか??(誰かお教え下さい!)

 57年のこと、転機となった迷曲「The Blob」の作詞を、バカラックは作家仲間だったマック・デイヴィッドに頼みました。マックはにょろにょろとした奇怪な歌詞を書き、同時にバカラックに自分の弟を紹介します。弟の名前はハル・デイヴィッド、これが二人の出会いでした。

 作詞家ハル・デイヴィッドは1921年ニューヨークに生まれています。バカラックと出会う前はブロードウェイでミュージカル畑の作詞家として活動していたそうです。バカラックとの記念すべき第一作はカントリー系シンガー、マーティー・ロビンスに書き下ろした「ストーリー・オヴ・マイライフ」(57年)。そしてこの曲がいきなり全米15位を記録します。翌58年、さらにこの曲はマイケル・ホリデイによっても歌われ、こちらは全英で見事第1位に輝きました。
 なんとも華々しいデヴューを飾った二人はその後もヒット作を送り続けます。全米チャートはもちろんですが、イギリスでの人気は特筆すべきものがあり、前述したマイケル・ホリデイ盤「ストーリー・オヴ・マイライフ」が1位を記録している時、その座を奪ったのがこれまたバカラック=デイヴィッド・コンビの「マジック・モーメンツ」(ペリー・コモ)だったというエピソードが残っています。この2曲連続ヒットで、全英チャート1位は実に10週もの間、この二人のニューヨーカーによって独占されていたわけです。

 あるときはティーンエイジャー向けポップス、あるときは映画音楽と職業音楽家に徹していた二人が、芸術性を高め、世界に知られるようになったのがディオンヌ・ワーウィックとのコラボレーションです。62年のデヴューから始まるこの時期を、在籍したレコード会社名を取って「セプター時代」とも呼びます。その信じられないようなヒットの連続はこの文章の冒頭に書いた通り。しかもそれらの曲の多くが、若いシンガー達によっていまだに歌い継がれているのですから、粗製乱造の使い捨てヒットではなく、いずれもが高いクオリティを持った名曲だったわけです(最近の日本の作家に聴かせてやりてぇヨ!)。

 ディオンヌが歌い、世界中にその名が知れ渡ったバカラック=デイヴィッドは、B.J.トーマスやジャッキー・デシャノン、トム・ジョーンズといった歌手達にも名曲を提供します。それぞれのナンバーについては第二部で触れるとして、ここではデイヴィッドの詞の世界を覗いてみましょう。
 彼の特徴としてよく言われるのが「都会的センス」ですが、これは、本当にスゴイ。とにかく徹底的に「都会で暮らす者の喜びや哀感」を歌っている。大自然の美しさがどうしただの、幼いころの思い出がどうしたのといったクサ〜いことは一切扱わないのだ(これまた日本のニュー○ュージックの連中に聴かせてやりてぇな。今回はちょっとガラの悪いサダナリである)。それでいてイヤミさもなければ、古さも感じない。不思議だ。例えて言えばビリー・ワイルダーの映画がいつまでも洗練されて、小粋に観えるのと同じかな。
 実際、デイヴィッドの詞はワイルダーの映画によく例えられますが、それはデイヴィッドが下積時代をブロードウェイで送っていたことが影響しているようです(ちなみにバカラック=デイヴィッドが初めて手がけたミュージカル『プロミセス、プロミセス』(69年)はワイルダーの映画『アパートの鍵貸します』の舞台化である)。

 小学校のころは街中に流れ、中高校生のころは音楽ファンとしてそのサウンドに着目し、そして大学時代、英語なども覚えて詞が気になり始めたが....わからなかった!ハタチやそこらの若造には、とにかくわかりませんでした。正直な話、その詞の素晴らしさがちょっとだけでもわかり始めたのはごく最近のことです。私も人生三十余年、それなりにイロイロありましたし(笑)。
 例えばB.J.トーマスが唄った「エブリバディズ・アウト・オヴ・タウン」(70年)、”誰もいない街”とはなんぞや?と思いきや、これはみんながバカンスに出かけてしまってガランとした都会を唄った歌。残念ながら日本にバカンスはないが、お正月の赤坂日枝神社付近なんてぇのが、なるほど妙にしんとしてイイ感じだったな。♪夏休み〜だの♪ホットサマーだのとノー天気な「バカンス側」に眼の向きがちなこのシーズンも、バカラック=デイヴィッドが作ると置き去りにされた都会の静寂を採り上げるのだ。うーん、職人である。
 フィフス・ディメンションなどで知られる「ワン・レス・ベル・トゥ・アンサー」(70年)も一見すると何が何だかわからないですね。都会のアパートメントに暮らす女性が、恋人と別れ、もうドアのベルが鳴ることもない。「応えるべきベルがひとつ減ってしまった」というバラードなのだそうです。いやぁオトナですな。恋の小道具はドアのベル、ほとんどワイルダーの映画だ!

 などなど、このまま挙げていったら「ハル・デイヴィッド・ホームページ」になってしまうのでこのあたりで止めておきますが、いやぁ、もう、こう書いていてもうっとりしてしまう。ドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーの「スティーリー・ダン・チーム」も、小西康陽=高浪敬太郎のかつての「ピチカート・ファイヴ・チーム」もバカラック=デイヴィッドの影響は多大。世界中の様々な人種、様々な世代を魅了して止まない、バカラック=デイヴィッドなのだ。

 ちなみに私が一番好きなのはなんといっても「マイ・リトル・レッド・ブック」(マン・フレッドマン・65年)!これについては後ほど、名曲紹介で!




Hal David & Dionne Warwick


■ディオンヌ・ワーウィックって誰?

 「ある日、ブルージーンズにスニーカーを履いた女の子が僕たちのオフィスにやってきた。彼女は歌を聴いてもらう約束で来たんだ。何曲か聴いたあと、バートと僕はひどく彼女の歌が気に入った。そして彼女は「ドント・メイク・ミー・オーヴァー」(62年)を歌ってスターの仲間入りを果たした」(ハル・デイヴィッド)。

 あたかもバンドの如く、バカラック=デイヴィッド=ディオンヌの「聖三角形」はヒット曲を連発し続けました。バカラックをして「かけがえのない宝石」といわしめたディオンヌ・ワーウィックは1940年ニュージャージーの生まれです。父親は元ピアニストでレコード会社の宣伝部長、母親はゴスペル・グループのマネージャーという「ミュージック・ビジネス一家」に育った彼女はコネチカットのハート音楽院に入学、正式な音楽教育を受けています。一説にはピアノも巧いそうです。
 バカラック=デイヴィッドとの出会いは61年7月、ザ・ドリフターズのレコーディングに於いてでした。バカラック=デイヴィッドが書き下ろした「メキシコでさよなら」にバックボーカルとして参加したコーラス・トリオの一員だったのです。冒頭のエピソードは多分この直後のことでしょう。ちなみにこのトリオ「ゴスペレイアーズ」にはディオンヌの他に妹のディー・ディー、いとこのシシィ・ヒューストンがおり、シシィ・ヒューストンは後にあのホイットニー・ヒューストンの母親となります。つまり、ホイットニーはディオンヌの、なんだ、ホラ、えーと「はとこ」とか、そーゆーヤツになります。

 その才能に眼を付けたバカラック=デイヴィッドは彼女を共作ナンバーのデモ・シンガーに起用、彼女の歌声は音楽関係者の間に広まって行きました。そして62年、「ドント・メイク・ミー・オーヴァー」でソロデビューを果たし、同時にこの曲は全米21位というスマッシュヒットも記録します。それからの快進撃は今までお伝えして来た通り。年代順に、みんさんが絶対に聴いたことのあるものだけを挙げても、「ウォーク・オン・バイ」(64年)、「遠い天国」(64年)、「マイケルへのメッセージ」(66年)、「アルフィー」(67年)、「小さな願い」(67年)、「サン・ホセへの道」(68年)、「エイプリル・フール」(69年)、「恋よさよなら」(69年)、「涙でさよなら(メイク・イット・イージー・オン・ユアセルフ)」(70年)などなど、止まらないよ〜。

 71年にバカラック=デイヴィッドのコンビ解消があり、ディオンヌもソング・ライター・チームを「ホーランド=ロジャー=ホーランド」に移します。それからはちょっと作風が変わるのですが、74年の「愛のめぐり逢い」、79年の「アイル・ネヴァー・ラヴ・ティス・ウェイ・アゲイン」など現役シンガーとしてヒットを続けます。
 そして85年、スティーヴィー・ワンダーやエルトン・ジョンらと共に12年ぶりにバカラック・ナンバーを歌いました。その曲「愛のハーモニー」は見事全米1位を獲得、この勢いに乗ってバカラック=ディオンヌの往年の名コンビで来日公演も行いました。
 近況はあまり詳しくないのですが、最近ではUSAフォー・アフリカや、エイズ研究機関へのチャリティーに熱心で、それをひとつのライフ・ワークと考えているようです。歌手生活30余年、いまだに歌い続けニュー・アルバムも発表しています。

 くりかえし書きますがバカラック=デイヴィッド=ディオンヌの曲はいまだにひとつのスタンダード・ナンバーとして−特に女性シンガーによって−歌い継がれています。メジャーなところではヴァネッサ・ウイリアムスの「アルフィー」、ダイアナ・キングの歌う「アイ・セイ・ア・リトル・プレイヤー(小さな願い)」など、みなさんがつい先日FMで聴いたあの曲も、この3人が今から30年も前に大ヒットさせた曲なのです。

 私の個人的なベストは....なんだろうなぁ、やっぱり高校の時に買った「エイプリル・フール」かな。今でもこの曲の歌声を聴くとグっと込み上げてくるものがある。実は今もかけながらキーを叩いているんだけど、巧い!声質、音程、タメ、どれをとっても「完璧」です。ロマンチックな「遠い天国」、小粋な「素晴らしき恋人たち」、ソウルフルな「ウォーク・オン・バイ」も大好きですが、しまった、また止まらない(笑)。

 「彼女はきわめて音楽的才能があったからレコーディングでも素晴らしかった。ディオンヌはすべてを実に楽々と、ふわふわ浮かんでいるような感じに歌ってくれる。別のシンガーだったら、もっと難しい感じになってしまうような曲をね」彼女との仕事はとてもスムーズだったわけですか?「そう、彼女はミュージシャンだからね。時にはあんまり音楽的じゃないミュージシャンと仕事をすることもあるが、そういう連中は自分が半音上がったり下がったりしても気づかないし、リズム感がない。そんなのだとまるで面白くないよ」(バート・バカラック)。




 人物紹介は以上。いよいよ名曲の数々を見て行きましょう。「ジャズとはたぶんこうなっているのだ一覧表」に続き、またしてもへんてこな表を作ってしまいました。題して「バート・バカラック名曲早見表」。バカボン・パパをクリックして次のページへどうぞ。続けてお待ちかねCDレヴューもありますよ。

(このページの写真とインタビューは「BRUTUS」94年12/1号から転載しました)





まったく「一覧表」の好きなヤツなのだ
でもベンリなのだ
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