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98/07/05
若人のための
日本映画入門
戦後黄金期編










昭和30年・松竹映画『早春』撮影風景






 小津の魅力を私の文章で伝える?!。このページ始まって以来の難題である(笑)。出来るのかね(出来ますとも)、本当に出来るかね(本当に出来ますわ)、そうかい、じゃぁちょいとやってみようか(ええ、そうなさいよ)...。

 小津のシャシンには暴力も、殺しもない。悪人もほとんど出て来ない(これは作品によるが)。主題は一貫して「家族」の問題である。母と息子、父と娘、夫と妻、そして兄妹...小津は監督デビューから逝去までの35年間、54本の作品によって日本の家族の姿を描き続けた(ごく初期にはナンセンス・コメディーなどもあったが)。
 では道徳的、啓蒙的な映画作家なのかというと、全くそうではない。物語は「おかしみ」と「かなしみ」を湛(たた)え、現代を生きる我々にもある時は微笑ましく、またある時は辛辣に訴えかけて来る。そしてその根底に流れる「粋」の精神によって、いずれの作品も洒脱を究め、説教臭さなどは微塵も感じられない。
 さらに特筆すべきがその映像センスである。徹底的なローアングル、バスト、ウエストショットの多用、独特のセリフ廻し、計算されつくした構図と光線、大胆な省略などにより「小津調」とも言うべき独特の映像世界を創り出していた。

 海外の映画監督に熱烈なファンが多いのも小津の特徴である。皆さんが良く御存知のヴィム・ヴェンダース(独・『パリ、テキサス』『ベルリン天使の詩』等)、ジム・ジャームッシュ(米・『ストレンジャー・ザン・パラダイス』『デッドマン』等)、アキ・カウリスマキ(フィンランド・『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』『浮き雲』等)、アン・リー(台湾・『ウェディング・バンケット』『恋人たちの食卓』等)などなど...小津の影響を明言し、我々も彼らの作品からその系譜を感じ取る事が出来る。
 そう、貴方が昨日観たあの映画にも、小津安二郎という大河の水が注がれているのだ。我々ミニシアター世代と小津安二郎の距離は決して遠くはない。いや、むしろ「松竹大船」というあまりに近過ぎる処に居たために、気がつかなかったというべきか。
 ヨーロッパ映画に狂う者も、インディペンデント・フィルムを追い続ける者も、小津に、じっくりと接して欲しい。どこかでハタと気がつく筈だ。「なんだ、こんな処にオリジナルがあったのか」と。

 映画ファンとして、日本人として、我々は小津を讃えるべきである。




■ 代用教員から撮影助手へ−

 小津安二郎(おず・やすじろう)は明治36年12月12日、東京・深川に生まれた。小津家は伊勢の出で、代々肥料問屋を営んでいた。明治43年深川区立第四尋常小学校入学、大正2年、一家は父を残し三重県松阪に転居。安二郎は松阪市立第二尋常小学校四年に転入した。これは父・寅之助の教育方針によるものだった。
 大正5年、三重県立第四中学校(のちの宇治山田中学校)に入学する。ここで寄宿舎生活を送り、のちの人生に大きな影響を与える数々の経験をしている。小説を読み、恋文を書き(これは停学にまで発展、更に自らの映画に引用されている。但し小津の相手は後輩の美少年であったらしい)、そして映画−それも洋画−に夢中になった。
 大正10年、中学を卒業し兄と同じ神戸高商を受けるも失敗、翌年、また失敗。山奥の小学校の代用教員となった。この経験ものちの小津作品に少なからず影響を与えているように思う。かつては教師を務めていた人物−現在はとんかつ屋だったり、中華そば屋だったりする−が実に良く出てくるのだ。
 大正12年、妹・ときの女学校卒業を期に上京、一家が全員東京に揃うことになる。同年8月1日、松竹キネマ蒲田撮影所に撮影部助手として入社した。関東大震災の丁度1カ月前のことである。時に安二郎20歳であった。

■ 戦前にも名作ありき−

 大正13年徴兵、近衛歩兵隊に入営するが、仮病などを使う不真面目な兵隊であったようだ。この不真面目さ−サボタージュの精神−はのちの第二次大戦時に「真価を発揮」する。一年後除隊。そして昭和2年、24歳にして時代劇部監督を命ぜられた。デビュー作『懺悔の刃』が時代劇であったのはそのためである。
 戦前の小津作品にはいくつかのシリーズものがあった。『大学は出たけれど』(昭和4年)、『落第はしたけれど』(昭和5年)などの「大学もの」と、『出来ごころ』(昭和8年)、『東京の宿』(昭和10年)などの「喜八もの」である。大学生と長屋の職人(実は失業中だったりするのだが)という対照的なキャラクターを題材としながら、世界的な不況の煽りを受けていた日本をほのぼのとしたユーモアで包もうとしていたようだ。

 日本映画草創期のようなこの時期に、小津はすでに後年まで語り継がれる名作を残している。昭和6年の『東京の合唱(コーラス)』と、翌昭和7年の『生れてはみたけれど』である。不況にあえぐ東京で、サンドイッチ・マンをする父親の姿を見てしまった幼い兄弟と、上司にへつらう父親の姿を16ミリ・フィルムで見てしまったやはり幼い兄弟のほろ苦い物語である。いずれの作品も「日本サイレント・ムービーの傑作」といわれている。
 なお、このページで度々引用しているSTUDIO VOICE誌での小西康陽氏(ピチカート・ファイヴ・リーダー)の連載エッセイ「東京の合唱」の題名はここから採られていた。まったく小西って人は、いったいどこまで...。

 昭和11年、トーキー第一作『一人息子』発表。これが、いい...(涙)。のちほど紹介しましょう。この作品あたりから前述の「家族」の物語が一層強固になってくる。
 昭和12年9月、応召。これから2年間、中国大陸に於いて「監督伍長」として転戦を続けた。弟の様に可愛がった歴史的名監督、山中貞雄との辛い死別があったのもこの時期である。山中の逸話は本当に辛い。いつか書かなければ...。昭和14年一旦帰国、先の『一人息子』で見せた親子の物語、家族の物語が更に発展を見せる。特に昭和16年の『戸田家の兄妹』、17年の『父ありき』は戦後の有名作の原形となった重要な作品である。

■ 撮影中止、応召、捕虜 −

 昭和18年、戦記映画の製作を依頼されシンガポールへ渡る。しかし予定されていた作品は諸般の事情から製作中止となり、更に折からの戦況悪化に伴って小津組はそのままシンガポールにて応召を受けてしまう。ところがこのあたりに小津独特のサボタージュの精神が隠されているようなのだ。
 まずは当初予定されていた『遙かなり父母の国』、これはシナリオに軍部からクレームがつき撮影中止となったとされているが、どうやら小津は「撮れないかもしれない」ことを察しながらあえて好戦的ではないシナリオ(共作に斉藤良輔、秋山耕作)を押し通していたらしいのだ。次に予定したインド独立のドキュメンタリー風映画『デリーへ、デリーへ』も撮影条件に無理難題を押しつけて一種の「時間稼ぎ」をしていた様な気(け)がある。

 またこのシンガポール時代、日本軍が接収したアメリカ映画を観まくるという快挙(?)も遂げている。当時、シンガポールは日本占領下にあり、接収したアメリカ映画は溶かして、戦闘機などの塗料にしていたそうだ。「それならば、その前に、観てしまえ」というわけである。うまい具合に小津組のキャメラマン・厚田雄春氏が検閲映写室の責任者に命ぜられ、そこを舞台に夜な夜な「上映会」を繰り広げていたらしい。『風と共に去りぬ』に始まり『わが谷は緑なりき』、『市民ケーン』、『怒りの葡萄』から『ファンタジア』、『ダンボ』まで。開戦以来日本への輸入が禁止となっていたアメリカ映画の数々をここで観ていたのだ。
 ふざけた連中である。時の言葉でいえば「非国民」の群れ...しかし、映画という表現手段を持つ者達が、戦争という愚挙のなかに束になって、ごっそりと放り込まれたら、やはり彼らなりのレジスタンスを試みたくなるのではないだろうか。それがこの「時間稼ぎ」と「その前に観てしまえ」であったようだ。徹底的なサボタージュ作戦。簡単にいえば「馬鹿馬鹿しくて戦争なんてやってられないよ」ということだったのだろう。
 しかし、だからといって小津が戦争に対して表現者として怠惰だったというわけではない。小津は小津なりの辛辣ぶりで、その愚かさを表現している。それについては後述する。
 それにしても、戦況激化する南方で観る『風と共に去りぬ』や『ファンタジア』は、小津や小津組スタッフの目にどのように映ったのであろうか。

 そんなことをしている間に昭和20年8月15日を迎え、同地にてイギリス軍の捕虜となる。昭和21年2月帰国。スタッフ達に順番を譲り、自らの帰国は小津組中で最後だったという。

■ 戦後の名作の数々、そして −

 戦後の復帰第一弾は『長屋紳士録』(昭和22年)であった。翌23年の『風の中の牝鶏』をはさみ24年に有名な『晩春』を発表する。嫁いで行く娘と、残される父の姿を描いた名作であり、この作品から脚本家・野田高悟氏との共同作業が始まる。つづけて『麦秋』(昭和26年)、『お茶漬けの味』(昭和22年)といった佳作を生み、昭和28年、代表作ともいえる『東京物語』を世に問うた。家族の物語の集大成−'TOKYO STORY'の名で海外でも評価の高い映画史的にも極めて重要な作品である。
 この時期からいわゆる「小津調」が確立される。詳しくは後述するが、世界中の、どこにもない素晴らしい様式美である。ところが、これからの小津が、意外に数限られているのだ。33年初のカラー作品『彼岸花』、34年大映に招かれての『浮草』など、ほぼ年1本のペースで8本の作品を発表し、昭和37年『秋刀魚の味』を最後に、ぷっつりと、息を引き取る。

 『秋刀魚の味』−遺作というにはあまりにも当たり前の、まだこの次、そのまた次がありそうな作品であった。小津の死を考えるとき、私はとても不思議な気になる。あまりにあっけなすぎて、実感が沸かないのだ。映画監督は自らの死を予見して、それなりの「結論」を表現した作品を残すことが多い。やりすぎで壮絶になってしまう人もいる。しかし小津のそれは、軽妙で、ユーモラスで...本当にいつも通りの「小津調」であったのだ
 しかし、それでいいような気もする。我々庶民の日常を描き続けた小津の死は、やはり日常のひとコマのなかにふっと埋もれて行くような、さりげないものであったのかもしれない。昭和38年12月12日、60歳の誕生日に小津は逝った。頸部悪性腫瘍、がんであった。

 それにしても、あっけなすぎる、と思う。「野田さん、厚田兄(け)ぇ、ちょいと間が空いちまったねぇ。そうろそろ次を撮りましょうか」と、声を掛けそうな、気がする。

 生涯を独身で過ごし、母親と住んでいた北鎌倉の家も今は無くなっているそうだ。




ローアングル− 小津映画の最大の特徴。「家族」のシーンはほとんどが日本間で撮られ、畳ギリギリに落としたローアングルで構成されている。襖を開け放ち、隣の座敷から庭先、そして塀(板塀または竹の'建仁寺垣')という不滅の構図があった。中期以降の作品には俯瞰はもちろん、パン(カメラの視線の移動)やズームアップなども全く用いられていない。その固着した構図は日本画、歌舞伎、能舞台を思わせた。
 どうやらこれは畳で生活する我々の視線を意識したものらしい。なるほど日本映画ならではのアングルではある。小津曰く「外国人にもいつか判るよ。日本人は坐ってるんだから、こういうポジションだってこと判ってくるよ」。

バスト・ショット − 小津のアップはアップではない。スクリーン全面に人の顔が大写しになることなど絶対になく、胸元から上、バスト・ショットを正面から正確に捉えたものが「アップ」とされている(会話の場面では「ウエストの切り換え」を多用)。
 このページの予告編で小津の代表作『東京物語』(昭和28年・松竹)のスチール−原節子の喪服のアップ−をトリミングして使用したのだが、これが全く「小津調」にならなかった。縦横比1:1.33のスタンダード画面(小津はこれにもこだわった)にバスト・ショット、これでなければ「小津調」は創り出せないようだ。

セリフ廻し − 独特である。「そうかね」「そうですわ」「やっぱりそうかね」「やっぱりそうですわ」というような、とぼけたやりとりが頻繁に出てくる。あれは一体なんなのだろう?当時の人々があのように話していたのか、それとも単に脚本家(小津自身または野田高梧)の趣味なのか。
 20代の若い登場人物にも「妙にぶっきらぼうで繰り返しが多い」という特徴がある。「ゴルフなんかよしゃいいのよ、よしちゃえ、よしちゃえ」、「ちいせぇんだ、ふとってんだ、かわいいいんだ」等々。しかし小津作品を見慣れて来ると、あの反復が快感になるから不思議だ。セリフには他にも「ちょいと」の頻発、あだ名の多用の特徴がある。

「東京」 − 『東京の合唱』『東京の女』『東京の宿』『東京物語』『東京暮色』...小津のタイトルには東京が頻繁に登場する。タイトルに「東京」を掲げない作品でも、殆どの舞台は東京であった。なぜ小津は東京にこだわったのか、東京に生きる人々の姿を映すことによって何を描こうとしたのか。
 いくつかの理由が考えられる。まず小津特有の家族の問題を描く時に、東京という街は実に「配置」がし易かったということ。煙突やガスタンクのそばで慎ましく暮らす庶民の姿や、建仁寺垣のある家に住む裕福な山の手一家、などなど。街の景色を借り、生活のイメージを固めていた感は少なからずある。
 もうひとつが、東京と地方の対比。これは『一人息子』(最初は『東京よいとこ』というタイトルで検討されていたらしい)や、『東京物語』で顕著である。これは思うに地方に住む老いた親の世代と、東京で暮らす子供達の世代の−物理的かつ精神的な−距離感を表現しようとしていたのではないか。詳しい説明はそれぞれの作品の解説に譲るが−ちょっと強引かもしれないけれど−それを思わせるセリフもいくつか、ある。
 最後の理由、これが一番大きいかもしれないのだが...要は、小津は「東京が好き」だったのだ。粋を愛し、本物のみを身につけていた小津...東京は彼の目指した洗練された映像を創り出すのに最高の「舞台装置」だったのかもしれない。
 小津の「家」と「東京」については、ほとんど記号論のような高度な論文もあるのだが、ここでは「入門者向け」ということでこのあたりにとどめておく。

「映さないこと」 − 不思議なのだ。小津のシャシンの大きな特徴が「映さないこと」である。例えば『秋刀魚の味』(昭和37年・松竹)の野球場。川崎球場の外観と照明塔は映るのだが、グランドも観客席も映さない。ミックスされた声援によって我々はその雰囲気を「察する」ことになる。思うにこれは静かな体温で統一されている「小津調」に熱気を帯びた野球場風景を持ち込みたくなかったのではないだろうか(キャメラマン厚田雄春も「試合の始まる前にライトをつけてもらって...観客席を見せていない。それが小津流」と語っている)。
 更に驚くのが「大胆な省略」である。『彼岸花』(昭和33年・松竹)では主人公・平山(佐分利信)の娘(有馬稲子)の挙式シーンが省略されている。佐分利の反対を乗り越えて、彼女が希望通りの結婚が出来るのか?がこの映画の主題であるにもかかわらずだ。これには正直かなり驚く。嫁入りの朝が映り、挙式はなし、それでエンドマークならともかく、結婚後の物語がその後少し残っているからだ。
 しかしこれらの省略が小津作品独特のクールさ、わかりやすくいえば「しん」とした感じを創り出している様にも思う。




笠智衆 (りゅう・ちしゅう)− お馴染み『男はつらいよ』の御前様だが、実はあのシリーズ開始以前は小津作品の重要な登場人物であった。昭和4年の『若き日』(松竹蒲田)以来20本以上に出演している。特に中期以降、昭和16年の『戸田家の兄妹』(松竹大船)からは17本連続出演。大学生に始まり、代用教員、若手編集者、会社重役、妻を亡くす老父と小津作品の歴史は笠智衆の歴史でもある。
 またその大半が実年令よりも上のいわゆる「老け役」でもあった。昭和17年の『父ありき』以降はほとんどが老け役。面白いのがやはり常連の中村伸郎との関係で、昭和28年の『東京物語』では「義父と娘婿」、5年後の『彼岸花』、9年後の『秋刀魚の味』では「同級生」になっていた。早くから老けていた笠に、中村が「追いついた」ということか。
 小津といえば笠。上手いのか下手なのかわからないあの声、あの口調が小津作品に見事にハマっていた。平成5年3月16日没、享年88歳であった。死の2年前にはドイツのヴィム・ヴェンダース監督作品『夢の果てまでも』に小津組の名脇役、三宅邦子と共に出演している。いづれもヴェンダースからの熱烈なラヴ・コールに応えてのことだった。
 その他の重要な、あるいは頻出する男優は佐野周二、佐分利信、中村伸郎、北竜二、佐田啓二、須賀不二男らがいる。


− 98/07/26 追記 −

 数々の小津作品で名演を魅せた俳優の須賀不二男さんが98年7月20日、腎臓癌のため都内の病院でお亡くなりになりました。80歳でした。
 小津監督がとにかく好きで、セリフが一言しかないような小さな役でも喜んで出演した−という須賀さんのご冥福を心からお祈り致します。



原節子 (はら・せつこ) − 永遠の処女。この人ほど謎めいた女優も珍しい。1920年、横浜生まれ(この項のみ西暦)。家計を助けるために35年、若干15歳で日活入りし、最初は時代劇や日独合同作品などに出演していた。37年に東宝移籍、40年代のはじめには島津保次郎監督作品に立て続けに出演。この時期がいわば女優修行だったのかもしれない。他に『わが青春に悔なし』(46年・東宝)などの黒澤作品や、有名な『青い山脈』(49年・東宝・監督今井正)にも出演している。
 48年、歴史に残る東宝の大労働争議を期に同社を離れ、翌49年名作『晩春』で小津作品に初出演を果たす。以降6本と本数こそ少ないものの、強い印象を残す重要な役どころを演じていた。東宝時代はさんざん「大根」呼ばわりされていた様だが...最後まで大根であったと思う。決して巧い人ではない。しかし、一度スクリーンに登場すると最高のきらめきを放つのだ。あの「凛(りん)」とした感じはまさに「映画女優」。今でいうならば...これが思いつかない。緒川たまき?ちょっと近いが、いやいや、まだまだ。甲田益也子?う〜ん、これが意外に近いかもしれない。
 小津同様一生独身を通し、それゆえに小津との仲を噂された時期もあったに記憶するが、真実の程は不明である。小津の逝去以降は映画界から完全に身を退き、北鎌倉の一軒家でひっそりと生活しているらしい。数年前『フォーカス』だか、『フライデー』だかが庭仕事をしている原を隠し撮りしていた。確かに歳はとったが顔の雰囲気は後期『東京暮色』(57年・松竹)あたりとあまり変わらないように感じた。現在も健在の筈である。今年78歳、間もなく80になる、のか。そうか...。
 その他重要な女優に吉川満子、飯田蝶子、田中絹代、杉村春子、三宅邦子、高橋とよらがいる。





昭和26年・松竹映画『麦秋』撮影後のスナップ

順に佐野周二、原節子、二本柳寛、三宅邦子、笠智衆、小津安二郎、野田高梧



野田高梧 (のだ・こうご)− 昭和2年のデビュー作『懺悔の刃』(松竹蒲田・サイレント作品)に始まり、昭和35年の遺作『秋刀魚の味』(松竹大船)まで、小津作品の大半で脚本を記していた。特に昭和24年の『晩春』(松竹大船)以降は13本連続で小津と共同執筆している。この時期、新作の度に蓼科の山荘に2人で籠もり、膨大な量の酒をしたためつつ脚本を創作していたらしい。小津映画の展開、セリフを決めていた人物であり、ある意味では前述した「小津調」の一部は「野田調」であるとも考えられる(実際、野田が担当していないトーキー初期の何本かを観ると、リズムもセリフもかなり異なっている)。さらに実は小津とは微妙な趣味の違いがあったらしい。これについては後述する。昭和43年没。
 なお野田氏の娘もシナリオライターで、『東京大空襲−ガラスのうさぎ』(昭和54年・大映)の立原りゅう(山内玲子)氏。その御主人、つまり野田氏の娘婿も同業、『豚と軍艦』(昭和35年・日活)、『私が棄てた女』(昭和44年・日活)、『若者は行く−続・若者たち』(昭和44年・松竹)の山内久氏である。

厚田雄春 (あつた・ゆうはる) − 小津組の名キャメラマン。初期のキャメラマン茂原英雄にアシスタントとして付き、昭和16年の『戸田家の兄妹』以降全ての松竹作品でキャメラを担当。蓮實重彦氏編集による『小津安二郎物語』(89年・筑摩書房刊)は厚田氏のインタヴューを纏めたもので、小津組の現場を知る良書であると共に、草創期から現代まで、サイレントからヴェンダースまでを知る貴重な映画史研究本ともいえる。
 同書によれば、セットや光線についてのちょっとしたアイデアは厚田氏発案によるところが多く、小津調を築いた重要な人物であることが判る。
 明治38年、神戸に生れ、東京に育つ。海城中学卒業後松竹合名に入社、事務方から撮影助手、キャメラマンと転ずる。参加作品はアシスタント時代も含めれば実に100余本。しかし小津亡き後は「生ける屍」を自称し、僅か数本の作品に参加したのみだった。昭和42年に実質上引退し、47年に松竹退社。58年に小津のドキュメンタリー映画『生きてはみたけれど・小津安二郎物語』の撮影監督を務めた以外は隠居の身となっていた。
 同58年にはヴィム・ヴェンダース監督の『東京画』(公開60年)で小津の思い出を語り落涙。その9年後、平成5年に息を引き取った。死を伝える新聞報道はかなりの段数が割かれていたように記憶する。










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