99/01/27
焼け跡に輝く 逞しき芸術
「幻の劇場 アーニー・パイル」
斉藤憐





「幻の劇場 アーニー・パイル」

斉藤憐


1986年12月20日・初版
新潮社 \1300



 愛国主義者、というわけではない。がんばれニッポン、ニッポン・チャチャチャ的な感覚はない、はずなのだが、こと芸術関係の話になると、日本人の海外での活躍が気になる。

 昨年の7月に「日本映画入門」ページを作ったが、そこでも名監督達の海外での評価についての記述がやたらと多くなってしまった。やはり、なんとなく、嬉しいのだ。
 アメリカ映画は世界で上映されている。音楽も然り、アメリカのヒット、イコール世界のヒットだったりする。最近でこそ変わって来たが、この一方通行はおかしいと長らく考えて来た。黒澤、小津から坂本龍一、ピチカート・ファイヴまで、私が気になるアーティスト達は皆、その一方通行を打ち破った世界的な存在の人たちである。アメリカを熱狂させた大阪のケッタイな元・OL3人組バンド、"少年ナイフ"なんてのも嬉しかったねぇ(笑)。

 更に「先人達の努力」というのも関心事である。映画ならば川島雄三、勅使河原宏、音楽ならば守安祥太郎など、今我々が目指していることを、数十年前に既に実践していた偉人たちである。決して豊かとはいえなかったあの時代に、頑張っていた人達もいるのだ。

 そんな私が、ここ数年、一番気になる人物が"Mr.Michio Ito"−伊藤道郎である。女優・中川安奈の遠縁にあたるとかで、名前と「凄い人らしい」ということだけを、10年位前から知っていた。3年ほど前に偶然に見たTVドキュメンタリーで取り憑かれた。そしてある日のこと、古本屋でこの本を見つけた。この本で完全に離れられなくなった。


 まずは文中のエピソードから−敗戦直後の日本、占領軍女性部隊のあるパーティーで、伊藤は巧みなダンスと話術を披露した。そのために彼女の周りに女性士官たちが群がり、離れようとはしない。不貞腐れた男性士官が「なんだ、あんなジャップに」と伊藤をアゴで指した。その瞬間、伊藤のこぶしが飛んだ...。
 敗戦国の人間が、占領軍の男性士官を殴り飛ばす。そんなことが出来たのはこの伊藤道郎だけかもしれない。言い忘れたが、伊藤の職業は「ダンサー」である。

 この本の主題である「アーニー・パイル劇場」というのも興味深いところである。1945年(昭和20年)秋、占領軍は自分たちの娯楽施設として日本の劇場をいくつか接収した。歌舞音曲が禁じられた長い暗黒の時代が終わって、これでやっと華やかなショーが復活すると意気込んだ日本人スタッフ達を待っていたのは、あにはからんや「劇場接収」の命令だった。戦争に負けるということは、そういうことなのだ。
 少女歌劇やレビューで人気を博してした東京・日比谷の「東京宝塚劇場」もその対象となり、大戦末期の沖縄戦で命を落とした従軍記者の名前を冠して「アーニー・パイル劇場」と呼ばれた。接収開始は同年12月。9月から11月までのわずか3カ月だけ、娯楽に飢えた焼け跡の日本人のために、"エノケン"こと榎本健一一座などの自前興業が打たれていた、という事実が、逆に、哀しい。
 さてそのパイルに米国から支配人とスタッフ達−その多くがショー・ビジネスにはド素人の軍人−がやって来た。管理者がド素人で、その下で働く日本人が百戦錬磨のプロフェッショナル−これではうまく行く訳がない。そこに颯爽と登場したのが、アメリカ帰りのミスター・ミチオ・イトー、伊藤道郎というわけだ。

 伊藤道郎−1893年(明治26年)生まれ。19歳で単身ドイツに留学、舞踊学校で修行を積み、第一次大戦を避けて英国に移る。ロンドンで名作といわれる舞踊を発表、1916年(大正5年)にブロードウェイに招かれて、ミュージカル劇団を結成。更にオペラ演出や、ワーナーのミュージカル映画の振り付けなどにも才能を現し、ロスに舞踊学校も設立していた。これが全て、日本人の業績、しかも大正時代から昭和初期にかけてのことなのだ。
 ニューヨーク時代に現地のアメリカ人女性と結婚、2人の息子をもうけていたが、日米開戦とともに抑留。1943年(昭和18年)にアメリカ国籍の家族を残し、日米交換船で日本に帰国していた。実に31年振りの帰還である(なお2人の息子のうちのひとりが俳優のジェリー伊藤)。

 1945年12月、伊藤はGHQの推薦でこの劇場の顧問兼総監督となった。敗戦直後の日本で、米国人たちに通用する十分なレベルのショーを行うべし。但し出演者、演奏者は日本人。その為に、欧州・米国での舞台の経験を持ち、しかも極めて高い評価を受けていた伊藤に白羽の矢が立ったのだ。
 以降、伊藤の作・演出によるレビューは大好評を博す。'46年2月、第一回公演「ファンタジー・ジャポニカ」、同年8月に第二回「フェスティバル」これは日本各地の祭りの情景を綴ったものだったそうだ。これも伊藤の計算である。最初の1年はいわゆる「和物」の踊りで繋いで、その間に日本人ダンサー"アーニエッタ"たちのレッスンを重ね、本格的な「洋物」が出来る力を付けよう、と狙っていたのだ。
 続く第三回公演「ジャングル・ドラム」、ジャズからガムラン、クラシックの「アヴェ・マリア」までも駆使したというこの企画は大好評を博し、なんと本場アメリカの『ニューヨーク・タイムズ』、『スターズ・アンド・ストライプス』にも採り上げられた。そしてこのアジア風レビューを踏み台として、翌'47年から怒濤の様な「洋物」の攻勢が始まる。
 まずはメキシコを舞台にラテン音楽を使った『タバスコ』で観客を魅了、次の『アーニエット南を行く』ではフォスターの名曲をふんだんに使いGI達を熱狂させた。そして8月、アーニー・パイル史上最高の出来といわれる『ラプソディー・イン・ブルー』、その内容はもちろん「ガーシュイン名曲集」であった。この時劇場スタッフは800人、舞台美術を担当した道郎の実弟・伊藤熹朔は舞台上にニューヨークの摩天楼を登場させた。



稽古中のバーカー支配人(左)と伊藤道郎

実はご覧の通り「坂本龍一にソックリ」というのが
私が伊藤に興味を持ったきっかけである


 もう、これは「占領軍慰問劇」の枠を超えている。しかしこれらのレビューは決して日本人の目に触れることはなかった。アーニー・パイル劇場−かつて「東京宝塚劇場」だったそこは"日本人立ち入り禁止"だったのだ(あまりにも好評だった一部の作品は、数カ月の時差を置いて、別な劇場で「日本人向け」上演も行われている)。
 占領軍による劇場接収という悲劇の中、道郎たちはプライドを捨てず、自らの芸術を貫き通した。その姿勢に、心から感動した。踊りや音楽だって、こんなに逞しい意志と力を現すことが出来るのか、と。

 書き落とせぬことがある。こうした戦後の業績だけを見て、道郎を「占領軍に迎合した御用演出家」などと考えるのは全くの誤りだ。道郎の死後に研究されたことなのだが、彼は政治的な活動もしており、その目的がなんと「日米開戦回避を日本政府と軍部に提言すること」だったというから驚く。
 開戦前年の昭和15年、道郎は一時的に帰国をして虎ノ門の山王ホテルに事務所を開いていた。そして秩父宮の列席する参謀本部の特別会議に出席、「日米戦うべからず」を説いていたのだ。翌年、事務所を撤収し再び米国へ。当時の米国は日系資産の凍結や、対日輸出禁止などが発布され、まさに「開戦前夜」ともいうべき状況だったにもかかわらず、だ。渡米した道郎は日本で行ったのと同様の開戦回避行動を、米国政府を相手に行っていたのではないかと言われている。日米両国を相手に、道郎はたった独りの「戦い」を繰り広げていたのだ。しかしながら回避に向けての彼のこうした努力は、すべて−どなたでもでも御存知の通り−残念ながら無駄に終わってしまった。
 長い海外生活で日米の国力の違いを熟知していた道郎は「戦っても無駄だ」と主張したかったのだろう。そこまで見えていた日本人、いや「国際人」もいたのだ。それなのに...。


 著者の斉藤憐は「自由劇場」出身の劇作家で現在はフリー。代表作の「上海バンスキング」を知る人は多いであろう。この本は事実半分、フィクション半分の小説風の作りになっており、当時の史実に基づいた「いかにもありそうな」、「きっとあったであろう」話も記してある。当然、主にはGIと"アーニエッタ"達の恋物語なのだが(笑)。
 資料的な記述や有名人のコメントも多くルポルタージュの様な、微笑ましくもどこか寂しいアーニエッタ達の恋物語からすると「小説」の様な...なんともいえぬ、不思議な本である。資料部分には当時の日米の流行歌事情や、当時すでに大スターだった"デコちゃん"こと高峰秀子の出演エピソード、インチキ英語を巧みに使い、気がつくと人気者になっていたというコメディアン、トニー谷の誕生秘話などもある。音楽ファンはもちろん、映画ファンにも興味深く読める魅力的な本といえる。
 なお、この本の「小説」部分は'80年代前半に上演された「グレイ・クリスマス」「オオ・ミステイク」「アーニー・パイル」の3本の芝居を元に組み立てられている。私が演劇を観始める前のことで、いずれも未見。悔しいなぁ...。

 ジャズについての逸話もアリ。接収直後の舞台稽古で、日本人楽団を前に米国人支配人が「バンドはアメリカから連れて来ないとどうしようもないんじゃないか」と言い出す。それもそのはず、その時の楽団員ときたらボロボロの国民服にちびた下駄、煮しめた様なドテラを着ている者までいて...。とうてい「ジャズ・バンド」には見えず、ナメられていたのだ。
 そこでリーダー格のペットの"磯やん"が激怒、「俺たちの音も聴かねえで、できっこないも、ねえじゃねえか!」と、猛然と演奏を開始する。曲は「タイガー・ラグ」。演奏は当然の如く「ホンモノ」。居合わせた米兵たちは踊り出す始末で...。演ってやれ!ブチかましてやれ!日本人にだってジャズが出来るぜ!と読みながら、叫び出したくなった(笑)。





 アーニー・パイル劇場の接収が解けたのは、なんと私が生まれるたった10年前の1955年、昭和30年1月のことであった。十年間のヒット作をオンパレードにした最終公演、その名も「ラスト・ショー」が上演されたのが'54年12月。この時、始めて一般の日本人客も入場を許されたそうだ。スポンサーとしてすぐそばにある民放ラジオ局"ニッポン放送"が付いている点が、なんとも、時代の移り変わりを感じさせる。
 若い読者の方はそうは思わないかもしれないが、昭和40年生まれの私からすれば、接収の解けた昭和30年は「ついこの間」という気がする。東京のド真ん中のショー・ビジネスの世界に、10年遅れの「戦後」があったのだなぁ(もっとも平成の現在でも、未だ接収の地は数多くあるが...)。

 その「東京宝塚劇場」も昨年'98年から取り壊されて、現在は新劇場の建設中である。伊藤の死去は1961年(昭和36年)。私の生まれる4年前だ。










■ 関連リンク ■


■ Intellectual Bicycle
小池元志さんのページ。英国製のハンドメイド自転車"モールトン"と、古き良き建物をめぐる東京散歩のコーナーがある。取り壊し直前の元アーニー・パイル、「東京宝塚劇場」の貴重な写真はこのページから。記述は正確かつ詳細。お薦めです!。
http://www.linkclub.or.jp/~koikem/










97/08/24 第一回 パソコンとジャムセッション? 「DOS/V BLUES」 鮎川 誠 みる




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