インターネットロックページ共同執筆 新譜/名盤クロスレヴュー
月刊 ロック・クルセイダーズ No.024 Nov.'00
2000/11/20 Updated







今月は新譜の月です
Brand New Choice of this month

PAUL SIMON : You're The One

WPCR-10809 (WARNER) 2000



もう悪口を言われないと思います 

 今回のお題がポール・サイモンと聞いた時、僕は昔読んだロビー・ロバートソンのインタビュー記事を思い出した。エクスワイア誌に掲載されたものでちょうどロビーがセカンド・ソロ・アルバム「ストーリーヴィル」を制作していた時期のインタビューなのだが、ロビー曰く、「ニューオリンズの連中はデヴィッド・バーンやポール・サイモンのことをあまりよく思ってない」という話だ。その他にもポール・サイモンのことを「ワールド・ミュージックの寄生虫」という評もどこかで読んだことがある。
 そんなわけで僕のポール・サイモンに関しての先入感はあまりよくなかったというのが事実だ。と同時に、なぜ彼等がそんな呼ばわれかたをされるのか興味もあった。
 ミュージシャンというのはその形はどうあれ、その人に影響を受けた音楽の要素がどこかに反映されているのだが、ただその反映のされ方によっては元ネタの音楽を愛する者達から反感・怒りを買う事もある。特にワールド・ミュージックをはじめとするある特定の地域の文化の中で育まれた音楽形態においてはそういうケースが起きやすい。よそ者がある日突然DATを持ってきて自分達の音楽をネタの宝庫とばかりに録音しまくって、自分の音楽にしゃあしゃあと取り込まれてはたまらないというわけだ。(これにある種近いものとして僕は最近の日本のサルサ・ダンス・ブームにはあまり肯定的でない。かつてこの国でランバダが、その前はダーティ・ダンシングというスタイルが流行ったのと同じようなノリを感じてしまうからだ。)

 話しを戻そう。で、そんなわけであまり先入感のよろしくないポール・サイモンの今回の作品だが、なるほど確かにリズム・アレンジなどにワールド・ミュージックのファクターはかなりの比重を占めている。だが、この作品に関しては僕は少なくとも寄生虫呼ばわりされるようなスタイルだけをかっさらってきた印象は受けない。むしろ非常にポール・サイモン個人のパーソナリティー性の強い私的スケッチな作品だなぁという印象を持った。

 全曲を通じてほぼ同じメンツでレコーディング、それもほとんどキーボードレスの少人数編成のグループで演奏されていることが大きく関係しているのだと思うが、彼の唄とギターに必要最小限のアレンジを施しただけのシンプルな作品だ。ポール・サイモンは全曲でエレキギターを手にしているが、作品全体のトーンはとてもアコースティックな音づくりだ。おそらくキーボードをアレンジに加えたくないから持続音の足りなさをエレキのトーンでまかなった感じだろう。指弾きでつまびかれたエレキギターの音はとてもやさしく響いており、彼のやさしいヴォーカルととてもマッチしている。これがライブだったら、きっと彼がステージにエレキ1本持って登場して新作を演奏しても何ら問題ないアレンジとなっている。

 かつて寄生虫呼ばわりされたかも知れないが、この作品の中で彼はワールド・ミュージックのエッセンスをしっかり自分のものとして消化している。単純にワールド・ミュージックを「このサウンドの感じ、おしゃれじゃん」と軽くパクっただけではこんな曲は書けないだろう。ギタリストとしてもソング・ライターとしてかなりイイ線行っている作品だと思います、ホント。

岩井喜昭 from " Music! Music! Music! "



アメリカンロックが忘れてしまったおおらかさ 

 僕はこの原稿を、ポール・サイモンを讃えるために書く。なぜなら、この日本において彼ほど知名度と売上げの差が激しいミュージシャンも珍しいからだ。それは彼を取り巻く大いなる誤解によるものだと思う。
 まず第一の誤解は、今を遡ること4半世紀、四畳半フォークだのニューミュージックだの言われていたミュージシャンがこぞって「サイモンとガーファンクル」をフェイバリットアーティストに挙げていたことによる。彼の野暮ったいイメージはこうして生まれ、現在に至るまでコンサバティブなファン層を育んでいる。いやはや残念。ソフトロック好きはミレニウムの未発表音源を漁る前にまず「Bookends」や「Bridge Over Troubled Water」を聴くべきです。「Mrs.Robinson」のギターアンサンブルや「Cecilia」のはしゃいだリズムは今でもぜんぜん色褪せてないよ。
 第二の誤解は、彼とアフリカの音楽を巡る不毛な議論による。ワールドミュージック黎明期、彼の取り組みはアフリカ音楽の寄生虫だの文化の侵略者だの散々な言われ方をしていた。黒人音楽の引用を否定するならロックというジャンルは存在しないし、100年・200年前の過ちを非難するべきだと思うんだが。なんでルーツミュージックを探究する人は誉められるのに、海を超えたとたん揶揄されなくちゃならないんだ?僕らにとって大切なのは、ポールがアフリカのポップスのどこに魅かれたのかということだ。理論武装もせずに、とりあえずアフリカに飛び込んでしまったモチベーションはなんなんだろう。

 ヒントはドキュメントフィルム「The African Concert」にある。ステージに並ぶアフリカのミュージシャン達が見せる屈託のない笑顔、人種を超えてアリーナに溢れる笑顔、そして一介のシンガー・ギタリストに立ち返ったポールの笑顔。アメリカのロックシーンがまゆをしかめて難しがっているそばで、なんとものびやかで楽しいコンサートであることよ。ポールが手に入れたかったのは、このおおらかさではないか。
 アルバム「Graceland」のライナーノートの中で、彼はアフリカのポップスを初めて耳にしたとき「50年代のロックンロールを彷佛とさせた」と書いている。言うまでもないが、彼がアルバムの中で理想郷のモチーフにした「Graceland」とは、50年代ロックの偉大なる2枚目であり3枚目でもあったエルヴィス・プレスリーの家なのだ。また、ブラジル音楽に接近したアルバム「The Rhythm Of The Saints」の制作と平行して、彼は50年代のニューヨークを舞台にしたミュージカル「The Capeman」の準備を始めている。この作品には、彼が子守歌のように聴いてきたドゥーワップやゴスペルのフィーリングが込められている。
 80年代半ば以降の彼の活動は、気難しい哲学者のイメージを振り払って、音楽の楽しさに目覚めた頃の気持ちを取り戻す旅だったように思える。そのためには、まずリアルタイムに「生きている」おおらかな音楽、アフリカや南米のポップスに直に触れてみる必要があったんじゃないだろうか。かくして旅の成果は、アルバム「You're The One」に結実する。

 アルバムからのファーストシングル「Old」には、彼のスタンスが明確に刻み込まれている。初めて「Peggy Sue」を聴いた12歳の時、初めて「Satisfaction」を聴いた失業時代、やがて意識は人類の歴史から宇宙の歴史にまで遡る。神と比べてみたら自分はまだまだ年老いていない、還暦を目前にした僕だって、ロックにのめり込んでいた少年時代と少しも変わっていないと歌うのだ。最後には洒落たオチがつくのだがそれは聴いてのお楽しみ。そして、エスニックなパーカッションとニューヨークのストリートミュージックが融合した「Look At That」は、全てを吸い込んだポールが今だからこそはき出せる吐息だ。
 このアルバム、セールス的にはコケるでしょう。南アフリカやブラジルといった明確なキャッチフレーズがない。四畳半スピリットに訴える明解なメロディもメッセージもない。一聴して、なんと地味なアルバムだろうかと思ったよ。でも彼はなによりリズムの達人であり、ナンセンスな言葉遊びの達人なのだ。そういう耳で聴くと、軽妙に韻をふんだ歌詞と奇妙なパーカッション、ギターのリフが見事に絡み合って、世界のどこにもない胸踊るグルーヴを生み出していることに気づく。そして今までになくリラックスしたムード。これはポール・サイモンが数々の冒険を経て、かつてアメリカのヒットソングが持っていたはずのおおらかさを、今の自分の音として手に入れたひとつの到達点だ。難しがるなよ〜。

山下元裕 from " FLIP SIDE of the moon "



僕とポールと東京で 

 ポール・サイモンについては、なんとも断片的な情報、しかもあまりよろしくないものしか持ち合わせていなかった。金儲けの為のワールド・ミュージックの過度な導入、ブロードウェイ・ミュージカルの失敗...。特に音楽界においては、前者は広く流布されており、「さて、どんなものか」と今回のアルバムを聴いてみた。

 なんだよ、ぜんぜんOKじゃん。オープニングで、「いかにも優等生がやりました」という様な(ハリウッドのメジャー映画のサウンド・トラックを思わせる)民族楽器の音が聴こえてきて、一瞬、アセる。不安を呼ぶ出だしである。この雰囲気で失敗した大物ミュージシャンのアルバム数知れず。さてこれは大丈夫かな...?
 そんな不安は僅か数秒で消える。ポールの歌声が、ストレートで、心地よく、完成度の高いメロディー・ラインに乗って登場するのだ。うまいよ、やっぱり。お気楽なポップ・アルバムかと勝手な想像をしていたのだが、意外にもそのメロディはランディ・ニューマンやライ・クーダなどの硬質なソングライターのそれに近い。

 部分的にアフリカを思わせるアレンジも導入されている。笛やカリンバ、パーカッション、リンガラっぽいギターも入る。しかしそれらは、明らかに彼が「通過した」証として加えられているだけで、ある一時彼に対して浴びせられた「ワールド・ミュージックの寄生虫」(でしたっけ?)などという絶望的な非難は当てはまらないと思う。

 どこがポイントなのだろうか...メロディーとヴォーカルだな。ワールド・ミュージック云々と言う以前に、あまりにもポールの存在そのものが明確なので、関心がそちらに向かうのだ。スピーカーから流れて来るサウンドの全てが、「これは優れたシンガー・ソングライター、ポール・サイモンのアルバムである」と痛感させてくれる。余計なことを考える余地など与えない。
 ついさっき、ランディやライの名前を挙げたが、私が一番近いと思ったのは、このクロス・レビューの第一回で採り上げたジョニ・ミッチェルの新作『テイミング・タイガー』だ。共通点は二カ所ある。まずは寡黙さと多弁さのバランス、そして冷静な声である。
 そしてそうした特徴が、音楽の骨格というものを見事に浮かび上がらせてくれるのだ。これは実に面白い体験でもあった。ともかく一回聴けば、ポールのメロディの魅力も、声の心地よさも、ついでにハッピーで才人で、そして多分ちょっとヒネクレ者であるだろう人格までも感じ取ってしまえる様な気がしたのだ。

 ちょっとした発見もあった。凝った感じの捻ったリズムや、「おや?」という感じのロックなバースなど、"サイモン&ガーファンクル"の楽曲で私が「面白いなぁ」と思っていた要素があちこちに出て来るのだ。あれはポールのテイストだったのか。そう、ポールの世界って面白いぞ。

 さて「面白いぞ」と誰に向かって言っているか?...私自身に向かってであり、周囲の皆さんに向かってである。前出のソングライターさんご一行は、皆「必須科目」。「もちろん押さえてますよ、ハイ」ってなところだが、残念ながらこの「サイモン&ガーファンクルのかたっぽのほう」はそれほどの注目は受けていないのではないだろうか。有名なのにね、不思議だよね。活動を熱心に追いかけている人の密度って、とても薄い様な気がする。
 現在の日本に於いて、ポールについて一番有名な事実は「村上春樹に顔が似ている」ということかもしれない。しかし、彼が非常に硬質なソングライターであり、凝ったアレンジの優れたアルバムを現在でも出し続けている、是非とも手に取るべきアーティストのひとりである、ということに気付いて欲しい。このアルバムを聴けば、それは判る。

 信じられないくらいに天気の良い土曜日の午後に、東京の青空を見ながら聴いてたら、気分が良くなりました。青空に似合うアルバムって、ありそうでないんだよ。これは貴重。
 恵比寿あたりのカフェなんかでかかっていたら、お店の人に「これ誰ですか?」と聴いてしまいそうでもある。「いや、実はポール・サイモンの新譜なんですよ、意外でしょ」「へぇ、いいっすねぇ」なんて会話が続いて、ジャケットを見せてもらって、帰りにHMVに寄って...。

定成寛 from " サダナリ・デラックス "






See you next month

来月は " Good Oid Choice " 名盤の月です


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