インターネットロックページ共同執筆 新譜/名盤クロスレヴュー |
月刊 ロック・クルセイダーズ No.001 Dec.'98 |
1998/12/20 Updated |
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今月は新譜の月です Brand New Choice of this month JONI MITCHELL : Taming The Tiger WPCR-2055 (wea japan) 98/10/25 on sale | ||
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● キャリア全開の音楽性とまぶしいほど若い創造性 |
そのワン・アンド・オンリーともいうべき素晴しい感性と音楽性から「最高のシンガー・ソングライター」として今なお多くのアーティストに影響を与え続けてきたジョニ・ミッチェル。いつも新作が出る度にこちらの期待を上回るものを届けてくれる彼女のデビュー30周年にあたるアルバムが発売された。サダナリさんとも「Rock Crusadersの第1回目はジョニ・ミッチェルの新作しかないっしょ〜。」と言ってたので、レビューをいきなり書くつもりでMacを前に置き聴きはじめたのだが....。 聴き終わってもこの手のつけられないほど暴れ出した才能の塊のようなCDを前にしてしばらく言葉が出なかった、と言うより出したくても出せなかった。言葉を失ってしまったその時の私にレビューを書くことなんて到底できなかった。 悔しかった。その無邪気な、しかも自然体で鳴らされた音に私は退化しつつあった耳の奥の聴覚をたたき起こされた。すでにこの世のポップ・ミュージックのフォーマットは出尽くしたと思いこんでいた私に「何、言ってんの!こんな楽しいサウンド知らないの?」と後ろからケリを入れられた感じだった。 主にロックを含むポップ・ミュージックの世界においてそのキャリアが20年以上に渡るミュージシャン達にとっての一番の悩みはおそらく「自分の才能の蘇生」ではないかと思う。自分の手の内は出尽くしているし、かと言っていつまでも同じ事をやっていると化石扱いされてしまうかも知れない。中には「オレ達はこれしかできねえ!」とばかりに開き直って同じことをやり続ける人もいるが、大抵は何らかの方法を使って自分を「蘇生」させて生き残りを図るわけである。 たとえばローリング・ストーンズの場合は母体となる4人に旬のプロデユーサーやミュージシャンといった外部の血を加えることでバンドの蘇生を図っているわけで、ミック&キース&ロニー&チャーリーといったストーンズ自体の本質は何ら変わっていない。外見的にはサウンドが蘇生したように見えても本質的には化石のままだ。(もっとも化石のままでいながら今なお色褪せないその魅力を持っていられることこそ素晴らしいのだが) また、エアロスミスなどのように外部のソングライターまで導入しながら自分達のサウンドに蘇生を図ったりするといった手法まで用いる例も珍しくない。さながら「皮膚移植だけによる蘇生=ストーンズ」に対し、「皮膚移植+血液移植による蘇生=エアロスミス」といったところだが、それらに比べて今回のジョニの蘇生は「脳移植による蘇生」とも言うべき変貌を遂げている。 しかも今回のアルバムで聴けるサウンドは過去の彼女のどの作品よりもエッジがたっていてオルタナティヴだ。金属的なアルゴリズムを波形に持つキーボードの音、ディストーションのかかったギターの音に混ざってウェイン・ショーターのサックスやブライアン・ブレイドのドラムが動物的な感性と絶妙な知性のバランスを保ちながら、聴きこむほどにその魅力の中へアリ地獄のように引きずりこんで行く。これこそロック本来が持っている「心地よい暴力」の20世紀ヴァージョンの完成形と言っていいだろう。 これまで培った音楽性をフルパワーで開放しながらも、その創造性はまるで10代の少女のように若々しさに満ちあふれている感じのこのアルバムができた背景に彼女の私生活面での充実(長年離ればなれになっていた里子との再会、新しい恋人の存在)があることは容易に想像がつくのだが、いくら自分が幸せモードになっているからとは言え、若々しさまでも身につけてしまったこの天才的音楽センスに太刀打ちできるものは現存の音楽シーンの中ではおそらく誰もいないだろう。 『孤高の天才』と称されるジョニ・ミッチェルにとっても「愛の力」というのは偉大だったわけだが、「愛の力」を手にいれた『天才』がこんなに手がつけられないものだとは知らなかった。恐ろしや、恐ろしや...。えっ、ジョニの誕生日は1946年11月7日だって?ジョニ・ミッチェルって"さそり座の女"だったのか。 |
岩井喜昭 from " Music! Music! Music! " |
● アップトゥデートに胸を打つベテランの豊潤 |
60年代から現在に至るまで、常に第一線で意欲的な活動を続けるジョニ・ミッチェル。グラミー賞を受賞した前作から実に4年振り、通算20枚目の新作が届いた。 ...な〜んて。正直に書きましょう。私はジョニの音楽を聴いたことがなかった。「青春の光と影」という楽曲のことは、原田知世の素晴らしいアルバム「カコ」や、ブロサム・ディアリーの歌唱で知っていたけれど。名盤推薦家達の意見に素直に従ってしまう再発世代の限界ですね。僕らにとって、女性シンガーソングライターと言えばまずはキャロル・キング、そのあとは微に入り細にわたり、マボロシであればあるほど偉いのです。なにより、すっきりした顔立ちのキャロルに比べて、ジョニのコワモテは推薦家達の推薦魂をくすぐらないみたい。 僕が彼女について知っている事柄と言えば、女性の心理を赤裸々に吐露した詩世界と、ロック・ジャズを貪欲に吸収して前衛の高みとも言えるサウンドを持っているらしい、ということ。むむむ、手強そうだなあ。かの有名なサダナリデラックスとMusic! Music! Music!の間に挟まれてしまったヒヨッコのわたくし、Rock Crusaders記念すべき第一回目のお題がジョニの新作と知って、びびりながらCDプレイヤーのボタンを押すことになった。 1曲目始まる。ちょっと拍子抜け。変拍子のユニークなサウンドは、噂に聞きしゼンエイノタカミと捉えることも出来るけど、ギトギトとした攻撃性が感じられない、とても自然なのだ。2曲目、3曲目。バラエティ豊かな楽曲。ジョニのボーカル、ギターは変幻自在でも凛として、決して気高さを失わない。薄っぺたいシンセサイザーも安っぽさを感じさせることなく、アルバムに程よい軽さを与えている。そして円く温かいベース、抑制されたドラムス。いやそれを言うならサックスも素晴らしいし、つまりは全ての音が豊かさを保ちながら、あるべき所にあるべき様にあるのだ。 30年のキャリアを持つベテランミュージシャンの最新作が、若いロックファンの気を引かないのには、もう一つ理由があると思う。多くの人は20代をピークにソングライターとしての才能を少しずつ枯らせてゆき、ある時突然にサウンドに対する興味を失ってしまう。そして、流行の上澄みだけを不器用に取り入れて「新機軸」と謳ってみるか、はたまたルノアールの油絵みたいな毒にも薬にもならない音を「円熟」なんて言葉で世に問うのだ。 ジョニ初体験の僕が最新作を1枚聴いただけで言ってしまえるのは、ジョニは30年のキャリアの中で常に全身全霊の神経を注ぎ込んで、その作品には1小節たりとも無駄な音がなかっただろうということ。 このアルバム、っていうかジョニの音楽を、どうか同世代のロックファンに聴いてほしいと思う。地味ながらもリアルタイムに胸を打つ作品でした。さて、次はどのアルバムを聴くか。心のWant listに新たな19枚が加わってしまった。 追記 : 評論家先生のジョニ評を読んでみた。ジョニの魅力は奔放な女性ならではのアグレッシブな詩世界にあるとあった。女性の心理がさっぱりわからない駄目な僕は、むしろ画家らしい描写力、イマジネイティブなシチュエイションの提示に魅力を感じたものだ。辛辣な言葉の影に皮肉や呆れはあっても、アルバムを聴きおえて、やっぱり青臭い攻撃的な感触は残らなかったよ。テイミングザタイガーのジョニはきっと、とても大人で強かな女性だ。そういうことに決めた。 |
山下元裕 from " POYOPOYO RECORD " |
● 再会したジョニは魅力的にハスキーに |
私はかなりいい加減なジョニ・ミッチェル・リスナーである。数年前のこと、ザ・バンドの解散コンサートを記録したドキュメンタリー映画『ラスト・ワルツ』('78・米/監督・マーティン・スコセッシ)を観た。そのステージにゲストとして出て来たのがジョニだった。ギターを抱えて、たった1曲だけ「コヨーテ」を歌った。これに、非常に、驚いたのだ。 単純なタテノリではない、変幻自在に伸び縮みするリズム感。非常に多くのことばが、極めて高度なラインで吐き出されて行く...「タイム感」というのはジャズの用語だが、まさにジョニのタイム感は凄かった。徹底的に複雑な譜割りだが、全く外さない。身体の中の「内なるリズム」に乗って「自分の音楽」を演っているという感じだった。それは彼女の表情にも現れており、私はスクリーンを観ながら「キットツヨイヒトナノダナ」と思った。 しばらくして、「コヨーテ」の入ったアルバム『Hejira/逃避行』('76)を買った。さらに驚いたことがひとつ、そしてがっかりしたことがひとつあった。 驚いたのはエレクトリック・ギターのサウンドである。映画ではアコースティック・ギターだったので判らなかったのだが、彼女の弾くギター・リフが、ラインも音色もエフェクトまでも、'80年代初頭に毎日の様に聴いていた静かなるニューウェイヴ・バンド、ドゥルッティ・コラムのそれにそっくりだったのだ。唯一無二と思っていたドゥルッティのサウンドだったが、実はジョニがルーツだったのか?。更にジャコ・パストリアスのベースとジョニのギターのインタープレイ(これまたジャズ用語、失礼)に面白みを感じたりもした。 そしてちょっとがっかりしたのが彼女の「声質」であった。これはもう生理的な「好み」の問題だが、あまりにもありふれた「普通の外人」の声に聴こえてしまったのだ。ローラ・ニーロやキャロル・キングといった、ちょっとクセのある声質を好む私には、少々物足りなく感じられた。エキセントリックなメロディー・ラインや、捻ったコード進行が本当に心地良かったので、「これで声が趣味に合えばなぁ...」と非常に残念に思った。 かくしてどうも後者が影響したのか(あるいは更に深いところで何かが合わなかったのか)、ジョニとの付き合いはこの『Hejira』1枚で一旦終息してしまった。 そして、新譜。旧(ふる)い知人に再会したような気持ちで聴いてみる。雑誌での評判通り22年前の『Hejira』にかなり近い雰囲気がある。しかし、アレンジが格段に良い。良いなんてもんじゃない。素晴らしい。シンプルなシンセとドラムス、パーカッションはいずれもツボを押さえ、静かなメロディーの中に歪んだギターが出てくると「これだぜ、これがロックだぜ」と思わずニヤリとしてしまう。例の叙情溢れるエレクトリック・ギターも健在。今回のアルバムではそれを中心としたインスト・ナンバーも収められ十分に堪能出来る。 声質の問題。この人、声が変わったのではないだろうか?キャリアと共に非常にハスキーになっていた。ロングトーンの部分ではかすれるところもあり、それが逆に魅力的なのだ。「これなら聴ける」と思った私はかなりのヒネクレものか(笑)。 ウェイン・ショーター(ss)の全面参加でジャズ・ファンからも注目を集めている作品である。彼のプレイも多弁ではあるが、邪魔にならないギリギリのところを押さえていた。『Hejira』ではジャコのベースとジョニのギターが競い、今回はショーターのソプラノとジョニのヴォーカルが競っている様に聴こえた。そのヴォーカルから感じられる彼女の「強さ」は依然健在、いや、いたずらに強いだけではない。全体を包み込む「静寂感」の中に、なんとも言えぬ深みも感じられた。そしてこの「静寂感」は今回のキーポイントかもしれない。ツヨサニマシテナニカガクワワッタノダナ。 そう、この声ならば聴ける。まずは前作『風のインディゴ』から遡って行こうか、と思った。そして丁寧に、彼女の詩の世界にも接して行くつもりだ。 |
定成寛 from " サダナリ・デラックス " |
See you next month
来月は " Good Old Choice " 名盤の月です
(C) Written and desined by the Rock Crusaders 1998 Japan
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