99/06/11
監督
川島雄三傳
『幕末太陽傳』





 平成十一年、佐平次になる  『幕末太陽傳』 ロケ地探訪

東京 品川界隈 


 「東海道線の下り電車が品川駅を出るとすぐ、八ツ山の陸橋の下を通過する...京浜国道にやや並行して横たわる狭苦しい街。これが東海道五十三次、第一番目の親宿、品川宿の今の姿だ...」。

 この映画の冒頭を飾る加藤武氏の名調子である。ナレーションはさらにこう続けている。

 「このいたって特色の無い街で、やや目立つものと云えば"北品川カフェー街"と呼ばれる16件の特飲店...しかしこの赤線地帯も売春防止法のアオリを喰って、1ヶ年以内の閉鎖を余儀なくされている。三百五十余年の伝統をもつ品川遊廓の歴史もここに一応幕を下ろすことになるのだが...」。

 この劇中でも2つの時代−幕末文久二年と戦後昭和32年の対比がシンプルに、しかし的確に描かれている。だがここでも述べられている通り、昭和32年4月の売春防止法を受けて、この「品川遊廓」は更に姿を変えている筈である。3つ目の時代、平成の、今の「品川宿」が見たくて、私はかの地に足を運んだ...。
 などとご大層に書いたが実はこの舞台、我が家から僅か3km、自転車で十数分の場所なのだ。毎日通勤で横を通っちょる。しかし宿場町の形跡を探すなどは初めてのこと、ちょっとした"地元探訪"の気分もある。なお取材は舞台となった旧品川宿周辺のほか、区立品川歴史館でも行った。

 幸運だったことがひとつ。劇中にも頻繁に登場する荒神様−海雲寺の年2回のお祭り「千躰荒神祭」が、まさに執筆を始めんとするこの3月27、28日に催されていたのだ。これを逃す手はない。映画の中の、あの宿場町の活気を求め、旧東海道を僅かばかりの距離ではあるが辿ってみた。
 そして残念だったことがひとつ。いきなり結論めいてしまうが、舞台となった「相模屋」は既に無く、その跡地は見事なまでに様変わりしていた。周囲は昔ながらの風情を仄かに残す街並みではあった。しかし佐平次よろしくふらりと泊まる事の出来る様な「宿屋」はなかった。もしもそれらしい場所があったならば、連れと登楼し芸者を上げて乱知気騒ぎ...いや、そんな財力はない。そんなことをしたら本当に「居残り」になってしまう(笑)。せめて一泊し、昔ながらの空気の中で、じっくりとこの稿を綴ったのだが...。

 まず前半は舞台となった「相模屋」の分析と、「遊廓」なるものについて少々"お勉強"を。そして文末では今回の取材によって得た考察、「川島の設計」について記す。


■ 幕末の「川島的空間」 〜 「土蔵相模」を見る

 東海道五十三次一番の親宿、「品川宿」が制定されたのは慶長6年(1601年)のことである。品川宿とは目黒川沿いの南・北品川宿と、享保期に出来た歩行新宿(かちしんじゅく−現在の北品川駅付近、かちは"徒歩"とも書く)で構成され、その全盛期には商店1561軒、住人6890人、そして旅籠が111軒という大繁栄を見せていた。
 『幕末』のシナリオを見ると、冒頭の志道聞多(二谷英明)ら攘夷の若人たちが馬上の英国人と"じゃれちょる"シーンのト書きに「徒歩新宿二丁目大通り」とある。ここで一悶着あり、その間に聞多の落とした「外国出来の時計」をフランキー堺演ずる主人公・佐平次が拾うところから物語はスタートする。それに続けて佐平次一行が登楼し、映画全編の舞台となるのが旅籠「相模屋」である。この相模屋、別名を「土蔵相模」といい、この地に実在の、しかも"品川一"とまで云われるほど有名な食売旅籠(めしうりはたご−女郎屋)であった。

 地元品川では「相模屋」よりもこの「土蔵相模」という呼び方の方が有名かもしれない。一風変わったその呼び名は、外壁が土蔵の様な海鼠壁(なまこかべ)だったことに由来する。劇中で描かれている、高杉晋作ら長州藩の攘夷派が御殿山に建設中の英国公使館焼打ちのためにここに集結したというのは紛れもない事実である。その後、慶応2年(1866年)には品川宿の窮民による打ち壊しを受けるなど、幕府崩壊の流れの中でひとつの"歴史の舞台"となった場所でもある。
 落語『居残り佐平次』が登楼したのもこの土蔵相模で...と行きたいところだが、私が聴いた限りでは佐平次の噺には具体的な旅籠の名前は出て来なかった。

 実はなんと、この土蔵相模の復元模型が存在する。品川区立の品川歴史館(品川区大井6−11-1)に常設展示されているのだ。


区立品川歴史館と復元模型全景
模型右側の障子は実際に相模屋にあったもの
手前の写真は昭和9年頃の相模屋



 そしてこの模型を見ると、「川島の空間設計」に驚嘆する。劇中で再現されていた相模屋と、完璧なまでに同じなのだ。貸本屋金造の棺桶が担ぎ込まれ、佐平次が大芝居を打った玄関口、焼打ちに遭った異人館の火事見物をした二階の窓辺、おそめとこはるが壮絶な女の戦いを繰り広げた中庭、そして若旦那と女中おひさが幽閉された二階建ての土蔵まで、すべてあのままで実在だったのだ。




玄関付近 高輪側から




玄関側 横浜側から




 更にこの模型を見ると、劇中で不思議に思われた相模屋の立体構造が良く判る。詳しくは写真に譲るが、この建物、海沿いの斜面に建っており、表側が二階建て、斜面付近は三階建て、そして海沿いが一階分降りた二階建てになっているのだ。つまり玄関口一階が斜面付近では三階建ての二階、海側では二階建ての二階に繋がっている。そして海側の客間はコの字になり、その端に土蔵があり...この複雑さ、いかにも"川島好み"である。舞台となる土蔵相模のこのユニークな造りを知った時の川島の喜びはどれ程のものであっただろうか。ニヤリと微笑みながらの「イイデスネ、ソレデユキマショウ」などという台詞が想像出来る。



コの字構造の
よくわかる写真


高輪側壁面
右側に斜面があり
一階分降りている


 思うに川島は少々特異な空間を好み、それを斬新なキャメラワークで切り取ることに快感を得ていたのではないだろうか。昭和34年の『貸間あり』(宝塚映画)では、舞台となる屋敷−かつては公家屋敷で、今はクセモノたちの住まう下宿屋となっている−の設計図作成に一週間以上を費やしたという。晩年にあたる昭和37年の『しとやかな獣』(大映)では実在の「晴海高層アパート」をモデルとした僅か2Kの空間を縦横無尽にキャメラが泳ぎ、ほとんど室外に出ることなく96分間を撮りきった。
 そういえば、同年の『青べか物語』(東京映画)で主人公である作家先生が下宿していた家は江戸川堤の窪地に建っており、土蔵相模同様通りとの段差があった。下宿する二階部屋が並行する堤通りと同じ高さになっており、いくつもの物語がその構図、その視線で繰り広げられた。
 『貸間あり』を始めとするこれらの建築物は映画に合わせた川島の創作だが、この実在の相模屋(土蔵相模)は期せずして他の作品と同様の「川島的空間」−複雑な立体構造や入り組んだ間取りなど−を創り出していたといえる。





海側から階段付近




庭の土蔵 海側から




 実在の土蔵相模という空間に、佐平次や芸妓ら架空の人物、高杉晋作ら実在の人物を泳ぐが如くに動かして徹底的にユニークな物語を創り出してしまった。その力量たるや驚くべきものがある。
 公開時に川島は「彼らの持つヴァイタル・フォースとでもいうべきものを与えているエネルギイが予想以上に強く、僕のささやかな馬力をはねかえすのだ」と語っているが、これは謙遜。川島と佐平次たちの互いのフォースががっぷりとあわさったところにこの映画の底知れぬパワアがある。そしてその舞台が相模屋だった、というわけだ。

 そしてこの相模屋のそれからと現在は...のちほど。




 『しとやかな獣』の舞台に関しては、長らく川島の終の住処となった「芝公園・日活アパート」かと思っておりましたが、雑誌『住宅建築』1996年8月号の特集「晴海高層アパートの38年−集まってすむ風景3」に同作品についての記述があり、正確には「晴海高層アパート」が舞台だそうです。ラスト近くに一瞬映る全景も晴海アパートの模様。情報提供は在シンガポールのSAKAI Shuichi様。貴重な情報ありがとうございました。大感謝です!
 それにしても川島は晴海や芝浦の湾岸が好きですね。昭和28年の『新東京行進曲』(松竹)に始まり、『人も歩けば』(昭和35年/東京映画)、『縞の背広の親分衆』(昭和36年/東京映画)そして『しとやかな獣』と。昭和36年の『女は二度生まれる』(大映東京)にも竹芝あたりが一瞬登場します。そもそもこの『幕末』も、江戸時代の湾岸の物語だし。近年流行りの「湾岸感覚」の先取りだったのか?「川島湾岸論」は研究の余地アリ。


■ 品川遊廓考 〜 舞台背景基礎知識

 品川宿の歴史を記す前に、舞台となった品川遊廓について少々。映画『幕末太陽傳』を理解するのに必要な最小限のものに限って。

 そもそも東海道の宿場街であるはずの品川が、なぜゆえに遊興の地となったのでろうか。同地の貸座敷「山幸楼」の三代目、秋谷勝三氏の著書『品川宿遊里三代』(昭和58年・青蛙房刊)には2つの理由が記してあった。

 まずは昔の旅が、いまのそれと大きく異なっていること。交通機関はなく、治安も穏やかならざる江戸時代のこと、無事に帰ってこられるかどうかわからないのだ。そこで江戸から東海道の旅に出る時は「無事に帰って来たい」と願い、帰って来た時は「ああよかった、無事に帰れた」と胸を撫で下ろした。なるほど、命懸けの旅の最初と最後に、女郎買いが伴うのは、まぁ、判らなくもない。
 秋谷氏の記述はそれから「品川の情愛」にまで発展する。「貸座敷の商いも、体を売る前に、まず情愛を売った」というのだが...これはどうかなァ。
 一晩に複数の客を取る「廻し」は浜松以東の遊廓だけにあった制度だというし、劇中にも南田洋子のこはるが裕次郎演ずる高杉晋作から「お前、また廻しか。はげしい奴じゃ」と言われるシーンがあった。それになにより、そのこはるが「わっちァ女郎でござんすよ!因果家業でござんすよ!騙しますよと看板を掛けてこの商売をしてるンじゃないか!」と大見得を切る名場面(?)もあった。
 秋谷氏本人もその点は十分承知しており、直後に「女郎の誠と卵の四角、あれば晦日に月が出る」と続けているが(笑)。

 ちなみに女郎買いの客はその廻しの都合から、「割部屋」と呼ばれる個室で待たされて、廊下を駆けるお女郎の高草履に、まだかまだかと胸を踊らせていたそうな...という話を劇中でその「そわそわ」を演じていた本人、仏壇屋倉造こと殿山泰司氏の『三文役者あなあきい伝』で読んだ。なるほどあれは芝居じゃなかったんだな(笑)。
 なおその割部屋に対し、娼妓(女郎のこと)の「個室」とでもいうべき「本部屋」もあり、この部屋で遊ぶのは格段に高価だったそうだ。ここには娼妓個人の茶箪笥や長火鉢などもあり、ここで相手をされると「間夫」(まぶ−要するに"パパさん"だ)になった様な勘違いをしてしまい...というから男なんて間抜けなもの(苦笑)。劇中にもおそめ(左幸子)の本部屋が何回も登場する。

 そしてもうひとつ、江戸に近い品川宿では旅籠屋は宿泊施設というよりも、遊興施設としての色が自ずと濃くなってしまったというもの。単純に地理的条件がつくり出した理由だ。東海道の起点、お江戸日本橋からは二里(8km)、歩いて2時間程度だったという。
 宿場は役人や大名が泊まる「本陣」(脇本陣)、一般の旅人が泊まり食事を出す「旅籠」、食料持参でただ泊まるだけの「木賃宿」に分類される。そしてこの旅籠にも二種類あり、食売女(めしうりおんな、飯盛女とも呼ぶ)を置いているのが「食売旅籠」、食売女がいない処を「平旅籠」と云った。そしてこの食売女が女郎の役目を果たし、前述の通り、食売旅籠イコール女郎屋となったわけだ(女郎屋は同時に「貸座敷」という呼び方もする)。
 こうした理由から、「北国」(ほっこく)と呼ばれた北の吉原と並び、「南国」「南蛮」と呼ばれた巨大な遊里(ゆうり)となり、東海道中など関係ナシに、只々ナニを目的に通っていた者も多かったのだ。ちなみに前述の旅籠屋111軒のうち、91軒に遊女がおり、飲食宿泊以外の"多角経営"に乗り出していた。

 しかしここで落とせないことがある。食売女が競った品川ではあるが、ただ女郎買いだけが売り物ではなかった。「おとづれて、風景足らずと、いふことなし」とまで云われる風光明媚な土地でもあったのだ。
 劇中の佐平次の台詞にもある通り、「膳の上から安房上総まで見渡せる」海沿いに位置し、御殿山の桜や海案寺の紅葉など四季の変化も美しく、そして新鮮な海の幸がふんだんに堪能出来る..まさに江戸の「リゾート地」であったわけだ。胸の病の為に「俺ァ女は絶ってるんでィ」という佐平次が、女郎買いなど考えもせずサナトリウムよろしく相模屋に居残りを決め込んだ理由はこの環境の良さにあった。
 今回の取材で痛感したのが、なによりもこの品川の「豊かさ」であった。調べれば調べるほど魅力的な土地に思え、同時に少々殺風景になってしまった現在を残念にも思った。
 制度について少しだけ。まずは「お茶屋」。これはいわば「紹介所」のようなもので、客はまず茶屋に立ち寄り、そこから食売旅籠に案内される。そしてその手数料を旅籠屋が茶屋に払う、という仕組みになっている。この手数料を「引き手料」と称したところから、「引手茶屋」とも呼ばれる(吉原とかススキノに今でもあるような気が...)。
 劇中、こはるがおそめのことを「お茶っぴき」と馬鹿にして壮絶な大喧嘩が始まるが、これは固定の上客が付かず、一見の客ばかり相手にしているということである。では、上客が付くとどうなるか、それが「ウツリカエ」の習慣で、これも劇中に出てくる。
 ウツリカエは娼妓の着物が夏物から冬物に変わる時に、上客がその資金を「援助」してくれるという、まぁ、高級クラブの「スーツ新調日」のような、今でもよくあるナニだ。ウツリガエの日は各妓楼ごとに決まっており、その日に良い客の付かなかった娼妓は「泣いて身の不運を歎いた」そうだ。
 上客に見放され気味のおそめが、貸本屋金造(小沢昭一)と「品川心中」を図ったのはまさにこれが理由。結局、蓮光院の和尚、梵全がやって来て思い止まり、「先にやっちまった」金造の"飛び込み損"となるのだが(笑・ところがこの梵全和尚が大した金を持って来ず、「しみったれのクソ坊主!」と恨まれることにもなる)。

 「台屋」「台の物」という言葉も出てくる。実はこれら貸座敷は「食売旅籠」とはいうものの、通常料理を作る設備や人手は持たず、客の注文によって出入りの「台屋」に作らせて届けさせていたのだ。今風の言葉でいえば「ケータリング」である。
 台屋の持って来る料理が「台の物」と呼ばれ、豪華な塗りの足つきの膳に乗せて客に出された。僅かな原価に膨大な「サービス料」が上乗せされ、非常な贅沢であったらしい。むむ、これまた今でも聞いた事のあるハナシ...。
 心中に来た金造におそめが「何でもおいしいもん取ってさ、じゃんじゃん景気よくやっておくれ」と言い、言われた金造が舞い上がってしまったり、息子・清七の女郎買いを見つけた仏壇屋の父・倉造(殿山泰司)が「こんな贅沢な台の物まで取りやがって!」と怒るのはこのためである。また担ぎ込まれた金造の棺桶を佐平次が削り、「割り箸にして台屋に卸す」という台詞もあった。
 「敵娼」−あいかた、というのも独特の言い方。お相手をつとめるお女郎さんのことだ。そして客が複数の場合、誰にどのお女郎をあてるかを決めるのが「引附」の段取り。これも冒頭に出てくる。これを行う部屋が「引附部屋」、行う婆さんを「遣り手婆ぁ」という、が、遣り手婆ぁを知らない人はいないよねぇ!劇中では"日本一の遣り手婆ぁ女優"と私が日々考えている名優・菅井きんが演じている(ちなみに関西では浪速千栄子だろう。昭和32年の宝塚映画『太夫さんより女体は哀しく』(稲垣浩監督)で実際に演じていた)。
 「新造さん」という言葉も登場するがこれは個人名ではなく、女郎見習いの若い娘のこと。付き人(?)のように先輩女郎の世話をする。劇中には宿代を溜め込んだ高杉晋作が「居残りは辛い。近頃は新造遣手までが、ええ顔はせん」というシーンがあった。
 なお終業時間は通常の「引け」が午前零時、深夜延長営業(?)の終業「大引け」が午前二時であった。英国公使館焼き討ちのシーンで、火事見物と大引けが重なっているが、実際の焼き討ちは12月13日の八つ半(午前2時)ごろだったというから見事に一致する。

 以上、これで映画に登場する「専門用語」と知識はすべてカヴァーしたはずである。今回の取材で私も大分遊廓の仕組みに詳しくなった。それぞれの用語はシナリオで読んで知っていたのだが、意味がいまひとつわからなかったのだ。今、もし「遊廓のテスト」をされたら、私は多分満点だ(誰が?!何のためにテスト?!)。
 映画側からの(シナリオからの)アプローチで、同じ状況になっている人は多いだろう。そうした人の参考になれば幸いである。
 もちろんこうした知識なしに観ても十分過ぎる位にに面白い映画である。ただ、こうした知識をもって改めて観てみると...当然の如く、より一層面白いのだ。聞き流していたセリフの意味が判り、登場人物の微妙な感情の動きも追える様になって来る。そしてこの映画が気楽に楽しめる娯楽映画と、史実に基づき深く、忠実に構築された歴史映画という二面性を持っていることに気付く。

 しかし今回、遊廓の仕組みを調べるのに最も役に立ったのが品川区教育委員会が昭和51年に刊行した『品川宿調査報告書』であった。「教育委員会」サマがこういう知識を授けて呉れるとは、さすが品川、なかなか粋でござンすねェ(笑)。


■ 幕末・維新・赤線廃止 〜 品川宿の流転

 さて、歴史について。かような繁栄を見せた品川宿ではあるが、『幕末』の劇中から6年後の1868年、明治維新という大変革の影響を受けることとなる。いや、正確に言えば品川宿にとって大きな変化となったのは続く明治5年の鉄道開業であろう。そして実はここが、ひとつの、いやいや、"ひとつめの"転機でもあったのだ。
 日本初の鉄道は「汽笛一声 新橋を」で知られる明治5年9月開業の新橋(現汐留)駅〜横浜(現桜木町)駅間と云われているが、実はその直前の明治5年5月に品川駅(現在とほぼ同じ場所)〜横浜駅間で「部分開業」していたのだ。つまり本当の「汽笛一声」、日本初の鉄道は品川からだったということになる(ちなみに当時の品川〜横浜間は約40分、現在の倍であった)。

 ところがその鉄道開業が品川宿にとっては逆風となってしまった。明治政府が1869年(明治2年)に決定した布設計画は「東京〜京都〜神戸」という旧東海道に準じたもので、当然品川駅の場所は東海道第一番目の親宿である品川宿付近が予定されていた。だがなんと、地元がそれに反対してしまったのだ。理由は「宿場がさびれる」というものだった。
 今ならば「鉄道駅誘致」のため地元権力者と政治家センセイが血マナコになったりするが...なにしろ日本初の「鉄道誘致問題」ゆえ、「逆の判断」をしてしまったのだなぁ。そのため"仕方なしに"品川宿をはずれ、少々新橋側の、しかも高輪にあった軍用地の関係から、海に突堤を築くという苦労までして出来たのが現在の「品川駅」である。
 その結果、1.品川駅なのに品川区ではなく港区にある、2.品川駅の南にあるのに「京急北品川駅」という奇妙な事態が発生してしまった(鉄道開通までの「品川」の中心はあくまで目黒川に架かる品川橋を中心とした南北品川で、その中心地は現在の京急新馬場駅付近であった)。

 当初はまだ良かったそうだ。鉄道の営業が品川〜横浜間だったうちは、まだ東海道を関西に向かう人は徒歩が多く、宿場もそれなりに賑わっていた。ところが4カ月後に新橋〜横浜間に延伸されると関西や東海地方に行く人も横浜方面までとりあえず汽車で向かうことが多くなり、交通の「起点」として品川の劣位は決定的となった。旅客の止宿は減少につぐ減少となり、「手のほどこしようもない状態」と記した本もあるくらいだ。
 対する鉄道は絶大な人気を誇った。当時の運賃、「新橋〜横浜間下等三十七銭五厘」が庶民に対してどれくらい手の出る金額だったかは不明だが、部分開通のみの明治5年7月の時点で「週ノ旅客人員一万五千人」というのだから、その盛況ぶりが偲ばれる。

 駅の切れ目が縁の切れ目、さらに鉄道以外にも「伝馬制」の廃止による人馬提供義務の終了、郵便制度導入による飛脚の廃止といった制度面による変化もあった。ともあれいずれもが品川宿に対して逆風として作用するもので、旧品川宿を行き交う旅人は減り、籠や早馬が通る事もなく、かつての繁栄は見られなくなってしまった。

 品川駅前の現状は御存知の通り。「品川プリンスホテル」「メリディアンパシフィック東京」といった超巨大ホテルが林立、今や都内でも有数のシティホテル密集地となった。時代が変われども、やはり品川は東京の南の玄関口、「宿場」の需要は十分にあるのだ。
 そして本来の宿場町、京急北品川駅周辺は加藤氏のナレーションにもある通り、「東海道線の下り電車が品川駅を出るとすぐ...」という"素通りされる街"になってしまった。自らが拒んだ駅の誘致で宿場町としての地位を明け渡してしまい、さらに「品川」の場所までもズラしてしまったとは、なんとも皮肉なものである。



佐平次の時代から僅か10年後
「東京高輪蒸気車鉄道之全図」


 但し、旧品川宿が明治維新を期に急激にさびれたというわけではない。続く明治、大正、そして昭和の中頃まで、この地は「遊廓〜赤線地帯」としてちょっと特殊な繁栄を誇ってもいた。それなりに、したたかに生き延びていたのだ。

 ここにも一旦は開化の影響が及びかけた。鉄道開通と同じ明治5年10月、金で買われた身の娼妓たちを「借金棒引きで全部御破算にする」という娼妓解放令が政府によって布告され、まさに品川宿は瞬間的に寂れて「晴天の霹靂」とも云うべき状況に陥ってしまった。直後の品川宿は「絲竹ノ音ヲ絶チ、俄カニ冬枯ノ景況ヲナセリ」と新聞に書かれたりしている。
 ところがこの娼妓解放令は政府が期待した効果は生まず、身寄りのない生活に不安な娼妓たちの私娼密淫売化を呼んだため、翌明治6年12月、自由度を高めた新しい娼芸妓規則の布告へ至った。そしてこれにより品川遊廓はしたたかに復活する。

 前述の鉄道開業の影響で、街道沿いの宿場町としての役目は終わったが、その後はその「サービス」を活かした遊里としてそれなりに栄えていた。都内に十数箇所あった赤線地帯のひとつとして冒頭のナレーションの如く、「接客婦」のお姐ィさんたちががんばっていらっしゃったわけだが...これも昭和32年4月発布の「売春防止法」で姿を消す。
 江戸時代からの大店はこれを期に商売替えを余儀なくされ、加藤氏のナレーションの通り昭和33年3月31日をもって「三百五十余年の伝統を誇る品川遊廓の歴史もここに幕をおろした」わけだ。
 これがふたつめの転機。結局、これが決定打だったのではないだろうか。廃娼の圧力には逆らえず、詳しくは後述するがいずれの店も"無害な"商売に転換し、結局地味な商店街になってしまった。
 公娼の是非は考えねばなるめィが、風情ある街並みがすっかり姿を消してしまったというのは少々残念でもある(街並みの変化には1980年代のバブルによる土地開発の影響も少なからずあったらしい。旅籠調の旧家やカフェー風のモダン建築が集中的に取り壊され、マンションやコンビニに生まれ変わったのはその頃だそうだ)。
 しかしこう考えてみると、映画に登場した華やかな「品川宿」というのがまるで幻の街の様に思えて来る。なる程、貴重な映画なのだなぁ...。

 以上が品川宿の数百年、現在に至るまでの歴史である。サビレタとはいってもこの日は「荒神様」、それなりに賑やかで、かつての雰囲気が感じられるかと出掛けてみると...。




さて、いよいよ、東海道を歩きます
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