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98/07/05
若人のための
日本映画入門
戦後黄金期編





















西








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川島雄三の鬼才
日本喜劇映画の金字塔




 監督・川島雄三−彼の事を記す日が遂に来た。このページを立ち上げた日から、いつか必ずと考えていた人物である。どんな映画監督よりも、いや、あらゆる音楽家、作家などよりも敬愛して止まない、私の人生に強烈な影響を与えた人間だ。

 日本人ジャズメン数知れず、しかし本物の「天才」と呼べるのは守安祥太郎(p)と阿部薫(as)の2人しかいない−という説がある。それに倣って言うならば、日本人映画監督で本物の「鬼才」と呼べるのはこの川島只一人なのではないだろうか。その洒脱、前衛、反骨は他に類を見ない。
 今年2月のバリトン・サックス特集で、私は「もしもマリガンがいなかったら...ジャズ界におけるバリトン・サックスの位置づけは変わっていたかもしれない」と書いた。その逆が、川島である。歴史に「もしも」は有り得ないが、もしも川島があと10年生きていれば、あと10本の作品を残していれば、喜劇はおろか日本映画全体が別の歩みを辿っていたかもしれない。しかし天寿を全うしたマリガンと違い、川島は生きられなかった。好んで撮った喜劇映画とはうらはらに、川島の生涯は一種の悲劇であったといえる。

 青森県下北郡田名部(たなぶ)町−川島の故郷である。田名部はのちに大湊と合併、現在はむつ市の一部となっている。この荒涼とした土地に辿り着いた近江商人、川島一族は財産の分散を防ぐために近親者による結婚を続けていたらしい。その影響で一族には身体上の障害を持つ者が多かった。残念なことではあるが、この雄三も、である。
  昭和13年、明治大学専門部文芸科を卒業した川島は松竹に助監督として入社、6年後に監督昇進。デビュー作は「撃ちてし止まん」の字幕と共に始まる戦中昭和19年公開の『還って来た男』であった。敗戦後の昭和21年に公開された2作目『ニコニコ週間・追ひつ追はれつ』では日本映画初のキスシーンを撮り、GHQの検閲官から絶賛されている。
 その後、戦後の一時期までは「アチャラカもの」と呼ばれる軽喜劇ばかりを撮り続けていた。あまりの安易な作風に、当時川島の助監督であった今村昌平が「どうしてバカな映画ばかり撮るんですか?」と詰め寄るも、只一言「生活ノ為デス」と言い切るのだった。
 昭和29年、日活に移籍。新天地日活で川島は俄にその才能を現し始める。『愛のお荷物』(30年)、『洲崎パラダイス・赤信号』(31年)といった意欲作で注目を集めるようになったのだ。しかし同時に、件の病魔が彼の体を蝕み始めてもいた。私はこの頃の川島を写したフィルムを観たことがある。腕を組む時に、左手で右手を持ち上げる様にしていた。右足、いや右半身を引きづるように歩いていた。遺伝的な進行性筋萎縮症(進行性筋異栄養症)によるものである。当時の川島の口癖、それは「私ニハ時間ガ有リマセン」であった。

 昭和32年、日活の製作再開3周年記念作品として作られたのが、日本喜劇映画の傑作中の傑作、この『幕末太陽傳』である(注・日活は戦争中の企業整備令により新興キネマ、大都映画と三社合併して「大映」となり一時実態をなくしていた)。
 簡単に言えば、「居残り佐平次」を中心に「品川心中」「明け鴉」等々、古典落語のオムニバスである。しかし川島はフランキー堺演ずる主人公の佐平次に肺病病みという宿命を与え、自らの姿を投影した。だがそのキャラクターに悲惨さなどは微塵も感じられない。破天荒で、鋭敏で、したたか、そして強烈な生への執着があった(注・佐平次が療養のために品川に居残るという設定自体は川島のオリジナルではない。大元の落語がそうなっていた)。


 文久二年暮れの品川宿。夜の街道筋で馬上のイギリス人と志道多聞(二谷英明)ら攘夷の若者達が一悶着起こしている。鉄砲で手を撃たれ懐中時計を落とす多聞。すかさず飛び出してそれを頂戴するのがこの映画の主人公、佐平次(フランキー堺)である。
 『幕末太陽傳』のタイトルと共に画面は一転、現代(昭和32年当時)の品川へ。「東海道線の下り列車が品川駅を出るとすぐ...」という軽妙なナレーション(加藤武)と、デキシー風のテーマ音楽(アーヴィング・バーリンの「アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド」。音楽は黛敏郎)。「これから面白い映画が始まる!」という雰囲気がひしひしと伝わって来る。この『幕末..』の他、30年の日活作品『愛のお荷物』や、37年の東宝作品『箱根山』など、川島のオープニング・タイトルの軽妙さは本当に見事である。
 スタッフ・ロールに重ねての品川紹介の最後に「さがみホテル」のネオンが映り、それがワイプして「相模屋」の行灯(あんどん)に変わる。時は再び文久へ。素晴らしい!。

 さてその相模屋に件の佐平次が入ってくる。仲間3人を引き連れて「大船に乗った気で居ねィ」と景気よくブチ挙げている(このシーンでの呑み込みの金坊(熊倉一雄)のおどけた芝居は絶品である)。芸者4人を上げて、夜を徹してのドンチャン騒ぎ。芸者の叩く太鼓のスティック...じゃなかった、バチを取り上げて自ら叩くフランキーが、ジーン・クルーパばりに右手でくるくるとバチを回す演出には思わずニヤリとさせられる。
 翌日、ひとり残った佐平時、勘定書を持って来た店の若衆(岡田真澄、流れ女郎が捨てていったハーフの品川っ子という設定)に「一文も懐に持ってないってんだから面白いじゃねぇか」と開き直り、店に居残って働いて返す、ということになる。

 しかしこれからの活躍ぶりが凄い。勘定をため込んだ高杉晋作(石原裕次郎)ら攘夷の志士からはそのカタを取って来る。女郎こはる(南田洋子)に入れ揚げた挙げ句、縁組の誓いを書いた起請文が衝突してしまった仏壇屋親子(殿山泰司、加藤博司)の前では、たった今手に入れた起請文を懐から取り出し、出刃包丁片手に「やい、こはる!てめぇはよくもこの俺に!」と大芝居を打ってその場を収め、親父から小遣いまでせしめる始末。
 どうやらこれは佐平次の計画的犯行で、海に近い品川宿に居残ってしばしの転地療養−サナトリウムの様なもの?−と決め込みたいようだ。

 こんな佐平次を女郎衆が放っておく訳がない。板頭(いたがしら、一番人気のこと)を争うこはるとおそめ(左幸子)が「年(ねん)が明けたらわっちと所帯を」と言い寄るも「胸の病にゃ女は禁物」とはね返し、寝起きする行灯部屋で薬の調合に専念する。これは、実は、川島の姿なのである。
 「生キル為ノ薬デス」と言いながら、一回に20錠以上、1日にその数倍もの薬を服用していた川島。自ら調べた薬を、行きつけの薬局で購入していたという。また一生妻をめとらず、同棲していた女性が妊娠した時も生むことを許さなかった。件の遺伝障害を自らの代で断ち切ろうとしていたのだ。
 「へいへい、何でげしょう」とおどける佐平次が、行灯部屋に戻り独りになった瞬間に見せる鬼気せまる表情には思わず息を呑む。川島と今村昌平(脚本・助監督)が力を入れた演出なのだそうだ。しかしひとたび廊下から声が掛かると「へ〜い」を景気のいい声を上げて飛び出して行く。元の表情に戻って...。

 二つの物語、相模屋の放蕩息子・徳三郎(梅野泰靖)と女中おひさ(芦川いづみ)、そして高杉晋作ら攘夷の志士達のエピソードを軸に終盤を迎える。おひさは父・大工長兵衛の借金のカタに働かされているのだが、結局払えずに遂に女郎として店に出されそうになる。「可哀相ダは惚れたってことよ」と気になる徳三郎。おひさも決断、二人は駆け落ちを企(くわだ)てる。
 一方、高杉らは御殿山の英国公使館の焼き打ちを企(たくら)んでいるが、肝心の絵図面が手に入らない。この二組、頼るところは当然佐平次である。
 凝った方法で蔵の中に幽閉されていた徳三郎らを逃がし、おひさを利用して絵図面も入手(このへんは観てのお楽しみ)、二組を同じ船に乗せる。「お前さん方を逃がせば、オイラここには居らンねぇ身体だ。なぁに丁度潮時」、佐平次最後の大奮闘である。

 宿に戻った佐平次、時はあたかも大引け(通常よりも遅い深夜の閉店)である。言い寄る女郎衆を後に、いよいよ逃げ出そうとしたその時、千葉の田舎親父・杢兵衛(市村俊幸)に掴まってすっかり調子を狂わせてしまう。「こはるサァ、どんな案配だァ」と聞く杢兵衛を「実はオッ死んじまったんでィ」とケムに巻くが、異常にしつこい杢兵衛に「寺ァどこだ、お参りするべェ」と付き纏わられる。
 近くの墓場に連れて行き、適当に誤魔化そうとするがこれも不発。要領のいい筈の佐平次が、ここでは全くサッパリなのだ。「あっしなんか若こうござんすから、墓にはとんと縁がねぇもんで」という佐平次、「いンや、おめさっきから妙に悪い咳コイてるでねェか」と言われ暗い表情を見せる(咳のことを言われふっと暗くなるシーンは他にもある)。業を煮やして逃げ出す佐平次。杢兵衛の「地獄サ落ちっど〜!」の声を背に、全力疾走だ。「俺はまだまだ生きるんでぇ!」と叫びながら。そして、エンドマーク...。


 「面白いなぁ」と思うシーンが幾つもある。中でも印象深かったのはおひさが佐平次に駆け落ちの手助けを頼む場面。当然ロハでは引き受けない佐平次に大枚十両を払うという。「でも今すぐじゃないんです。毎年一両ずつ貯めて、十年経ったら返します」というおひさに、佐平次ひとこと「十年経ったら世の中も変わるぜ」...そう、世の中も変わる。六年後が明治維新、十年後は明治5年なのだ。
 なお抱腹絶倒のエピソードはまだ山ほどある。書ききれないので思い切り省いたのだ。とにかく爆笑の連続(特に貸本屋の金造(小沢昭一)のシーケンス、クックック...)、111分があっと言う間だ。




佐平次ご乱行
西村晃、フランキー堺

ラストシーン
逃げ出す佐平次



 当時好調だった日活の記念作品としてオールスター・キャストを配しながらも人気絶頂の裕次郎らを脇に回し、いち喜劇タレントだった元・ジャズ・ドラマー、フランキー堺を主役に持って来た川島の勇断は当時も話題になったらしい。しかし女郎屋の廊下を飛ぶように走り回る佐平次のリズム感はさにジャズのそれであった。

 この一本で監督・川島雄三は実力派の仲間入りを果たし、主役のフランキー堺もこの年のブルーリボン主演男優賞に輝く。川島は再度、東宝系の東京映画に移籍。リベラルな社風の中で『グラマ島の誘惑』(34年)、『貸間あり』(34年)、さらには大映に出向き『女は二度生まれる』(36年)、『雁の寺』(37年)、『しとやかな獣』(37年)等の奇作、怪作、名作を残した。そして昭和38年6月11日、遂に、息絶える。その死はあまりに呆気なく、周囲の映画人を驚かせた。毎晩の習慣通り銀座で豪遊、酔って自宅に戻り昏睡、そのまま、二度と、目を覚ますことはなかったのだ。死因は「肺性心」、心臓の衰弱である。
 枕元には一冊の本−死の翌年に製作の予定であった『寛政太陽傳』の主人公写楽の資料−が広げられた儘だったという。享年45歳、51本の作品と3本の待機作(監督予定作品)を残し、川島は風の様に去って行った。監督としての活動はわずかに19年間であった。

 なによりも悔やまれること。それは川島がまだその実力を出し切らずに死んで行ったのかもしれない、ということだ。「『幕末...』以降は順風満帆」というわけではなかった。酷評された時期もあった。自ら「失敗作」という作品もあった。しかし死の直前、急激にその完成度を増していたのだ。特に37年の『青べか物語』、『雁の寺』はいずれも傑作、『しとやかな獣』もなかなかの佳作であった。
 かつては酷評していた評論家筋から、ようやく好評を得始めていた矢先の死だった。本当に、せめてあと10年生きていたら。いちファンにすぎない私がこんなに悔しいのだから、本人の無念さたるや...。



川島雄三監督



 一流品ばかりを身につけ、趣味はカメラ、酒は銀座と「粋」の限りを尽くし、後年「もっとも都会的なセンスを持った映像作家」と言われていた川島だが、こうして考えてみると、その強烈なまでのモダニズムは、彼自身に取り憑いていた、極めて、深く、日本的な−彼の命をも支配していた−因襲との決別を意味していたのではないだろうか。
 いくつかのエピソードがある。川島は同郷・田名部出身の著名人、太宰治が大嫌いだったそうだ。死に逃げた太宰が許せなかったのだ。また川島の映画をフランスのヌーベルヴァーグ、アメリカのアメリカン・ニュー・シネマの先駆けと言う人もいる。いずれにも共通したテーマが「逃避」である。ジャン=ポール・ベルモンドが南仏の海岸線をアンナ・カリーナと逃げ、ダスティン・ホフマンがウエディング・ドレス姿の恋人を教会から連れ出してやはり逃げ、そして『幕末...』のラストも主人公、佐平次が逃げるシーンであった。「俺はまだまだ生きるんでぇ」と叫びながら。

 日本喜劇映画の金字塔と言われる名作であり−私事ではあるが−私が、最も愛する作品、生涯のベスト1である。初めて観たのが小学校の頃、中、高、大そして現在まで繰り返し、繰り返し観続けている。何回観ても飽きることはない。人間いかに生くべきかという高大なテーマを、道徳的にも下衆にならず、あくまで洒脱に軽妙に描いたこの作品に、励まされ、叱咤され続けているのだ。
 『幕末太陽傳』の存在、川島雄三の存在をひとりでも多くの人達に気づいて、知って欲しいと思う。こんな駄文では川島の魅力の1%も伝わらない。近日中にこのコーナーにて「川島雄三徹底研究」を作成する予定である。

 なお、この6月で川島没後35年となる。



99年6月11日 雄三忌

川島雄三監督徹底研究ページ完成
「監督・川島雄三傳」はこちらです



この『幕末太陽傳』はにっかつから廉価版ビデオが発売されています





























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今村昌平の奔放と苦悩
「日本映画は面白くない」という奴はこれを観ろ!




 今村昌平−今回紹介する監督の中では現役として最もめざましい活躍を見せている人物である。'97年、今村は『うなぎ』(ケイエスエス)でカンヌ国際映画祭最優秀作品賞、パルム・ドールを受賞した。彼はすでに'83年にも『楢山節考』(東映)で同賞を受賞しており、今回で2度目。世界でも4人だけ、日本人では当然ただひとりの快挙である。
 確かに、巧い。唸らされるところが沢山ある。早稲田大学卒業後松竹に入社、小津安二郎、渋谷実、川島雄三の3人に助監督として付き、川島と前後して日活に移籍。経歴と共に斬新な作風からも川島との共通点を探ってしまうが...先輩、川島をかなり上回っているように思う。「超川島マニア」の私が言うのだから間違いない。悔しいが、かなり巧い。

 この作品も、もう、設定だけで勝ったも同然(笑)。米軍基地の街を仕切るヤクザが「多角経営」でなんと養豚業に乗り出す。しかし二重、三重の裏切りの末、ワリを喰った豚係のチンピラが爆発。繁華街は数えきれない程の豚の洪水となり、一同圧死...。もう書いているだけでウキウキしてしまう。これが今村昌平監督の超名作『豚と軍艦』(昭和35年・日活)である。


 昭和35年、基地の街、神奈川県横須賀市。米兵相手の歓楽街「ドブ板通り」から映画は始まる。朝鮮戦争も終わり、景気もいまひとつ。地元を仕切る暴力団、日森組も旗色が悪い。組長・日森(三島雅夫)は知恵を絞り、米軍に顔の効く日系二世・崎山(山内明)からベースの残飯をタダで払い下げてもらい、それで養豚を始める。「豚係主任」を任されたのは組一番の下っ端、欣太(長門裕之)であった。「デケエ仕事始めンだ」−自信タップリに言う欣太。チンピラとしての自分を「売り出すんだ、これからよォ!」と見栄を切る相手は、地元の幼なじみ'ハルっぺ'こと春子(吉村実子)だ。

 そんなある日、日森は流れ者のやくざ春駒を始末してしまう。屍体の処理に困った一同はムシロにくるんで横須賀の海に捨てる。兄貴分・星野(大坂志郎)から「万一の時は親分の代わりに臭いメシ喰って来い」と言われる欣太。
 しかし春子はそんな生活がイヤで堪らない。「川崎行こうよ、ふたりで。貧乏したって職工がいいよ」、「イヤだね」とツッパる欣太に、春子は切り札を出す「じゃあアタイ、アメちゃん(アメリカ兵)のところに行っちゃうから」。さすがの欣太もこれには動揺する。
 星野にはちょっとした目論見がある。日森を引退させ、ナンバー2の鉄次(丹波哲郎)に跡目を継がせて、ついでに豚は山分けというものだ。ところがこの鉄次、どうやら内蔵が悪いらしい。ある日、鉄次は血を吐いて倒れ病院に担ぎ込まれる。「俺りゃァ、癌だァ!」とわめきちらす鉄次。しかしなんだか妙に元気でとても重病人には見えないが...。
 そんな騒ぎの間に、星野が組の金を持ち逃げする。病弱な鉄次を見限ってしまったようだ。欣太と春子は相変わらず大喧嘩。キレた春子は狂った様に米兵と遊ぶ。そして、その挙げ句に集団で乱暴されてしまう。それがひきがねとなり春子は姉の弘美(中原早苗)同様、米兵のオンリーになる決心をする。

 日森組にも様々な災いが降りかかる。まずは崎山が礼金だけ受け取ってハワイに帰国、日森はすっかり騙されたのだ。ヤケになった日森は豚を手放そうと考える。更に春駒のゲタが港に揚がり、殺しの一件もバレそうだ。ワルの兄貴連中(加藤武、小沢昭一)が欣太をけしかける。こうなりゃ最後、日森に隠れて豚を売っぱらおうという寸法だ。
 一旦はベースに行った春子だが、やはりオンリーにはなれず、一目散に帰って来る。「今夜、川崎に行こうよ」、駅で待つという春子に欣太が言う「俺ァヤクザ辞めんだよ。今夜限りでよ...」。春子が待っていた一言。

 欣太の最後の大仕事。日森に隠れての豚の横領である。これが終われば分け前を貰って、春子と一緒に川崎へ...。夜の養豚場に数十台のトラックが着く。オーライ、オーライという欣太の前に現れたのは、兄貴連中ではなく日森だった。企みは漏れていたのだ。豚を満載した日森のトラックと、それを追う軍次(小沢)のトラックがカーチェイスを繰り広げ、ドブ板通りになだれ込む。車を降りて日森と軍次が掴み合う。しかしそこは大人、豚の分け前を決め、二人は手を打つ。ここで二派が結託、お互いの保身のために春駒の一件もカタを付けようと、日森の身代わりの自首を欣太に勧める。
 面白くないのは欣太だ。ブタの横領は失敗、分け前も貰えず、日森の代わりに数年は臭いメシ...「俺はもう騙されねぇぞ!チクショウ!」、ここで、猛然とキレる!マシンガンを片手にたったひとりで日森らと戦い始める。トラックの運転手達に「豚を放せ!」と強要。ドブ板は前代未聞の「豚の洪水」となる。これが、凄い!数えきれない豚の洪水!一面の豚、豚、豚、地面は見えずショウウィンドウは豚の力で破壊される。路地裏に逃げ込んだ日森も軍次も、豚の群れに押しつぶされて圧死か瀕死だ...。

 国鉄横須賀駅、改札の横で欣太を待つ春子。街の方は妙に騒がしいようだが、欣太は来ない。同じ頃、大八(加藤)の撃った弾が当たり、瀕死の重傷でドブ板を彷徨う欣太。水洗便所に頭を突っ込んで、哀れ最期を迎えるのだった。

 数日後、独り残された春子は、堅い決意の表情でこの街を後にする。横須賀駅に向かう春子、米兵に群がる女たちの間を突き抜けて横須賀線に乗る。ラストシーンは駅を発車する上りの横須賀線。駅に吸い込まれる春子から、駅を立ちトンネルに消える横須賀線まで、山の上からの俯瞰でワンシーン・ワンカット。お見事!。

 この映画を観た時の事はよく覚えている。12年前の6月、銀座の並木座だったと思う。クライマックスである欣太対日森とそれに続く豚の洪水に館内は爆笑だった、が、私は全く笑わなかった。欣太が一体どうなってしまうのか、気が気ではなかったのだ。たったひとりの欣太の戦いに、どきどきした。大八の弾が当たり「当たっちまったよぉ、痛てぇよぉ」という欣太に目が釘付けになっていた。「こんなに辛い話しなのに、なんでみんな笑うんだろう」と思った。この晩、この仕事さえこなせば、春子とのカタギの生活が待っていたのに...。



小沢昭一、加藤武

足元には豚の大群



 今村昌平、巧い。まず構図が素晴らしい。ワイドスクリーンをフルに活かし、絶妙の人物配置で魅せて来る。キャラクターも強烈である。特にチンピラのひとり、大八(加藤武)の怪演が光る。この加藤は本当に凄いぞ!屍体を処理しながら「アハハァ〜、汁が出たヨ」、捨てたつもりの屍体が港に揚がり再び始末しなければいけないが...「穴ァ掘るの面倒くせェからヨ、大釜でアラ茹でにして豚のエサに混ぜ込ンじまったのヨ」...。徹底的にドギツイのだ。さらに丹波先生の妙演も良かった。
 ラストシーン付近も凄いなぁ。駅に向かう春子を望遠で追うが、ここだけ他とトーンが違う。妙に生々しくまるでドキュメンタリーの様だ。エンディングのワンカットは前述の通り。なるほど、名監督である。

 しかし同様に脚本の山内久氏も讃えなければ。テレビ・ドラマ『若者たち』の印象が強く、生真面目なイメージのある氏だが、そうか、こんなパンクな作品も書いていたのか。カタギの工員である鉄次の弟・喜久夫(佐藤英夫)が、銀次の内妻・勝代(南田洋子)と言い争うシーン。「がっちり腕を組んで、発展的な世界を...」と妙にプロレタリア的な発言をする喜久夫を、勝代がピシャリと説き伏せる「あんたは全然世の中が判ってないよ」。当然本意は喜久夫の発言なのだが、それをストレートに主張せず、勝代の「現実論」とバランスよく見せるあたりが絶妙である。

 もしこの映画を面白いと思ったならば、しばし、今村を。まずはこの5年後に撮った怪作『エロ事師たちより・人類学入門』(今村プロ)をお薦めしたい。名優・小沢昭一を満喫出来る、エログロナンセンスドラマである。面白れェぞ!更にその翌年に作られた実験的作品『人間蒸発』(今村プロ/ATG)を観る機会があれば、それは逃さないで欲しい!なかなか上映されないレア作品なのだ。
 そして隠れた傑作、『果てしなき欲望』(昭和33年/日活)も。殿山泰司が、西村晃が、菅井一郎が、今村組の名だたる常連が「最高傑作」と讃える名作。『黄金の七人』('65年/伊)よりも、『オーシャンと十一人の仲間』('60年/米)よりも面白いかもしれない怪盗モノの傑作である。今村昌平の体力を痛感する一本。本当に面白い!
 有名な『神々の深き欲望』(昭和43年・今村プロ/日活)も10年前に一応観たが...やたら長かったなぁ。面白いところもあったが、どうもこのへんから、ちょっと私には合わなくなって来た様だ。初期の奔放さは本当に素晴らしかったのだが...。

 欣太の、モガキが、哀しい。軍艦の街の豚の喜劇だが、同時にチンピラと日本(製作年は60年安保の年であるとをお忘れなく)の苦悩の映画でもあると思う。しかし堂々としたタイトルである、付けも付けたり『豚と軍艦』とは...。


この『豚と軍艦』はにっかつから廉価版ビデオが発売されています








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笑いと感動の2本立て
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