インターネットロックページ共同執筆 新譜/名盤クロスレヴュー
月刊 ロック・クルセイダーズ No.005 Apr.'99
1999/04/20 Updated







今月は新譜の月です
Brand New Choice of this month

NewRadicals :
Maybe you've been brainwashed too.


MVCA-24131 (Universal Victor) 1998/12/19



「見ためから変えましょう」 

 人は見ためで判断してはいけない。これはある意味で正義の論理かも知れない。しかし、実際には見ためというものは個人差はあるにせよ、その人の性格とか資質がにじみ出ているものだから、見ためでその人を予想するのはいいんじゃないかと思う。
 さて、このNew Radicalsだ。このアルバムそこそこ売れてたらしいけど、私は全然この人のことは知らなかった。その音を聴いたことがないCDを手にした場合、それが当たりかどうかの予想をつけるのにジャケ写の持つ割合はかなり大きい。プロデユーサーとかのクレジットが外から見えない時などはなおさらだ。そういう意味ではこのアルバムのジャケは、この手のファッション及びそれっぽい音楽とかにあまり興味のないワタシ的には、正直期待に胸踊らせるものではなかった。(山下さん、ごめん)

 「人は見ためで判断してはいけない」と思いながら、プレイヤーにのせた。すると、こちらの想像とは全く異なった音が出てきたのでびっくり。ジャケ写を見た限りではもっとクラブっぽい音を想像していたのだが、音使いはブラック・ミュージック好きな人がやるロック(ってむちゃ主観的な説明だけど)のフォーマットだ。1曲目なんかは「悪魔を憐れむ歌」のミック・ジャガーを意識している?なんて勘繰りもいれたくなった。
 とは言うもののストーンズとかのように、やってる連中が心底ブラック・ミュージックに惚れ込み、おベンキョーしているからこそ出てくる「黒っぽいフィーリング」はここにはさほど見られない。かと思いきやジャミロクワイなどのように「のめり込んではいないけどスタイル的にはそれなりに消化している」ような感じもなし。厳しい言い方をすればアレンジ的には「ベンキョー不足」な判断を下せざるを得ない。
 しかし、人は見ためで判断してはいけない。それはあくまで「ブラック・ミュージックをどれだけ消化しているかどうか」というひどく一方的な採点基準で見たらの話だ。それこそそんな採点基準を用いたくなってしまったジャケ写こそ最大の問題だと思う。(だって普通このジャケ見たらそういうものを期待するでしょーが)

 先入感なしに聴いてみれば、曲のクオリティはそんなに悪くはない。ミキシングの音がもっと立っていれば(ボブ・クリアマウンテンとかがミックスすれば)ブルー・アイド・ソウルっぽい良質なロック・アルバムにもなるところをそうはせず、塩ラーメンのようにエグイところのない仕上がりは「飽きがこない」とも言えるから、これはこれで良しとしてもいいだろう。
 ただ、おせっかいを言わせてもらえば、この「それなりにまとまりのよい」資質が心配なように思う。自分が成り上がりたいという欲望よりもいい音楽を聴かせたいという気持ちの方が強い人なんじゃないかという気がするのだ。中ジャケに写っている顔を見ると、ミック・ジャガーっぽい歌い方をするのが想像できないような、ほどほどに優等生で誠実そうな顔をしている。だから自分の曲をこてこてにアレンジしてエグミを出すのも嫌ったのかも知れない。その「いい人」さがウラ目に出そうな気がするのだ。

 極論を言えば、やることやってりゃ別にそいつの性格がサイテーなやつでもいい。(シンプリー・レッドのミック・ハックネルなんてその典型らしい)ミュージシャンは音楽がよくてナンボ。その「よい」が、決して自分だけに通じる基準では絶対ダメで、自分自身のこだわりをクリアーしながら、同時に人に聴いてもらうための「商品価値」をどれだけ持たせられるかが大事だと思う。(そのためには自分の音楽性を表わす服装やジャケ写にも気を配るべきだろうし)
 ましてやロックやポップ・ミュージックという資本主義の世界を持つ音楽の中で生きていくのなら、いい意味での「あざとさ」は必要不可欠なものだ。資質としては悪くないのだから、この誠実さを維持しつつ成り上がり根性を持って作品を作っていってくれればと思うのだ。(シェリル・クロウんとこ行って弟子入りするといいかも?)
 でも、まずは見ためから変えようよ。そうすれば中味も変っていくと思うからさ。

岩井喜昭 from " Music! Music! Music! "



君の中には音楽がある 

 「逃げ出しちゃいけない/君にだって生きてく理由はあるだろ/忘れるなよ/頑張った分だけきっと返ってくるんだってことを」
 これは日本盤の帯に引用されたフレーズ。いやはや健全だ。ザードやチューブのアルバムと併せてお求めになっても何ら違和感はない。
 「8人のダスト・ブラザーズとベックとハンソンに/助けてもらってファッション雑誌の撮影/コートニー・ラブとマリリン・マンソン/お前らみんなニセモノだ」
 これは音楽誌が盛んに引用するフレーズ。いやはや辛辣だ。今後の芸能生活に支障はないんだろうか。
 ニュー・ラディカルズを巡る話題は、健全と辛辣、このふたつイメージの間を際限なく行き来する。ロックシーンを厳しく批判しながらも、「頑張った分だけきっと返ってくる」という一見平凡な結論を導き出すのが彼のデビュー曲「You Get What You Give」だ。この曲が誤解を孕んだままセンセーショナルにヒットした現状を、ひょっとしたら彼=ニュー・ラディカルズ=グレッグ・アレキサンダーは苦々しく思っているかもしれない。

 70年代ニューソウル風味の楽曲と80年代のテカテカしたサウンド、それを照らいもなくやってしまう90年代の青年。ひとことで言うなればそんな印象を持った。耳に残るメロディはベン・フォールズ・ファイブなんかにも近い感触かなあ。幅広い音楽性やノドを萎めたような歌いかたに、トッド・ラングレンの影を見る人も多いみたい。
 ノーザンソウルの聖地デトロイトにいながら、ザ・フーを参考に音楽活動を始めたニュー・ラディカルズ。フィラデルフィアに生まれながら、ビートルズやヤードバーズを完コピしたトッド・ラングレン。トッドが、ブルーアイドソウルからブリットロック、果てはレコーディングエンジニアやマルチメディアクリエイターとしても一流であるのに対して、ニュー・ラディカルズの雑食性はどこか中途半端で胡散臭い印象を残す。例えばアルバム冒頭の「うわーお」。多くの日本人はこれを聴いて志村けんを思い出したはずだ。思わなかった?いや、僕はそう思った。

 唐突だが志村のブラックミュージックフリークぶりは有名だ。今のロック購買層が自我を確立した少年時代、毎週のように刷り込まれた「ヒゲダンス」のリフレイン。今でもあれを聴けば、思わず手が首が動くでしょう。全国津々浦々の小学生がテディ・ペンダーグラスのリズムに体をくねらせていた、そんな国をほかに知らない。そして、「ドリフの早口コトバ」は間違いなく日本初のラップによるヒットソングだった。僕は、近年のフリーソウルブームや歌謡曲のR&B化の影に、ドリフの影響を確信しているんだけどどうでしょう。
 では、フリーソウルの文脈で紹介される音楽がなべて胡散臭いかといえば、もちろんそんなことはないだろう。フリーソウルは音楽の聴き方につけられた名前だ。当の本人はフリーソウルを作ろうなんて思ってもいないし、自分の音楽が遥か極東でこんな聴かれかたをしていることに苦笑いをするかもしれない。ニュー・ラディカルズの極度にポップな楽曲が日本で受け入れられたのも同じこと。たまたまドリフ・エイジのブルーアイドソウルへの接し方として自然だっただけ。別にJ-WAVEがかけるために作られたわけではないのだ。

 幻想かもしれないけど、歌に聴くデトロイトという街はニューソウルの時代からあまり変わっていないようだ。彼が歌うのは彼の目の前にある出来ごと。人種差別や宗教問題、ドラッグ、資産家、マスコミ、彼女のことや音楽への愛情について。深刻な社会問題と音楽への愛情とが、ごく自然に並列されているのが印象的だ。そこに彼のロックを感じてしまった。
 例えばモテなかったり金がなかったりといった不幸を目の前にして、「私は不幸」と嘆いてみせる音楽がある。問題の存在にも気がつかず「キミが好きだぜベイビー」と笑顔を押し売る音楽がある。闇雲に拳を振り上げて説教をたれる音楽がある。そんな中でロックは、ありったけの皮肉とユーモアをこめて「やってられまへんがな」と叫ぶのだろう。
 グレッグ・アレキサンダーのインタビュー記事に、こんな言葉があった。
 「ロック以外のどこで脳ミソを空っぽにしたり、人間の抑圧と闘える場所があるんだ?」
 そう、全ての不幸の存在を受け入れた上でなにか楽しく馬鹿馬鹿しいことはないかと模索した結果がロックであり、従ってロックは全ての不幸を放り出して楽しい(放り出すべき不幸を持たない人には楽しくないかも知れない)。
 ニュー・ラディカルズは日本の頑張れロックのように、闇雲に「諦めちゃだめだ」と言っているのではない。彼はこう言っているのだ。「諦めちゃだめだ。君の中には音楽がある。」

 彼は彼のロックを歌い、しかし微妙に胡散臭く、そしてクリス・ペプラーにチェッキッタされてしまう。ニュー・ラディカルズがこのまま素直に、いわゆるビッグアーティストに成長するかどうかは甚だ疑わしい。「You Get What You Give」のセンセーショナルなヒットには、一発屋の香りが濃厚にただよう。それにも増して彼の圧倒的なマイナスポイントは、空気感がないことではなかろうか。
 ポップなメロディとラディカリズムの絶妙なバランスは、ひどくクリアな音作りによってあっという間に崩れ、産業チックな印象を与えてしまう。辛辣なメッセージが、優等生のちょっとした御乱心に見えてしまう。それが甘さであり、胡散臭さであり、J-WAVEなのだ。いっそ信頼できるプロデューサーがいればと思う。トッドとか?うーん、喧嘩しそうだ。
 僕は「Mother We Just Can't Get Enough」や「You Get What You Give」、「Someday We'll Know」を初めて聴いた時の高揚感を信じたい。たとえ一発屋として忘れ去れても、5年後10年後には地味で素晴らしいアルバムをひっそりとリリースしてくれるのではないかと、極東のふにゃけたソウルで期待しているのだ。(文中の歌詞は田村亜紀さんの対訳より引用しました)。

山下元裕 from " POYOPOYO RECORD "



うたうといふこと 

 '85年のこと、ジャズ・ピアニストの山下洋輔氏はニューヨークの酒場で元・セックス・ピストルズのジョン・ライドンと遭遇、二人ともしたたかに酔い、ジョンに向かって「ヴォーカリストは神だ」と発言したそうだ。言われたジョンは勿論反論(笑)、しかし山下氏は「あんたもそうなんだから、自分の才能に、自分だけが持つ声に、自分だけが出せる音程に、感謝をしろ」と続けたらしい。私はテッテ的な無神論者で「神も仏もあるもんケェ!」が信条(?)なので、たとえ比喩とはいえ100%は共感出来ないのだが、ま、いわんとするところは判る。

 楽器などをいぢる様になって早15年か、20年か。かつてはシンセやギターに挑戦し、ここ10年程はマイナーな種類の管楽器などを首からぶら下げて、ジャズなるものを演ろうと企んでもいるのだが...大変だよ、ほんと。
 音色を創り、旋律を奏で、他人に認められる「音楽」とする。グガンと鍵盤を叩いたり、ブワっと管を吹いたりすることがこんなに大変だとは思わなかった。まぁ、なんとなく"音楽のようなもの"を垂れ流す事は出来るのだが、他人を「うん」と云わせる様なものを生み出すのは、こりゃ、ほんとに大変だ。

 で、これを楽器ではなく自らの声で、身体で演ろうってんだから、そりゃヴォーカリストは更に大変だ。「神」と言いたい気持ちも判らなくはない。思えばジョン・ライドンなる人物−いや、ジョニー・ロットンと呼ぼう−は今から20年以上前に自らの声に観念のディストーションを掛けて歪ませ、ヴォーカルという行為をブチ壊してしまった偉大な人物である。回りくどい言い方をすれば「画期的なヴォーカル"奏者"」だったのではないだろうか。
 ムチャクチャやってた様に見えて、実はジョンは音楽学校出身で、譜面の読み書きは完璧だった...てなあたりが面白いところでもある。ふふふ、ちょっと懐かしいなぁ。高校の頃にPiLのコピーバンドでアレンジとシンセをやっていたのだ。

 ...前置きが長いでしょう。星の数をご覧いただきたい。連載5カ月目にして、遂に「星1ケ」なのだ。この声、この歌、辛かった。

 名前とヴィデオ・クリップくらいしか知らなかったので、この文章を書くためにあちこちの資料に当たった。え?!ジャミロクワイ路線なのか?この「英会話学校のニイチャン」が?。
 サウンド的には...ブルー・アイド・ソウルをやりたいのかなぁ?確かにギターのカッティングやピアノの使い方、パーカッションなどにその雰囲気は−僅かながら−感じられる。もっとも「スタイル・カウンシルのユルいパクリ」とも感じられるのだが(苦笑)。
 しかし、ジャミロクワイにあったスティーヴィー・ワンダーにも通じるあのザラっとした質感や、ヘヴィーな低音、それらによって生まれる「へぇ、ここまでやってくれるんだ。嬉しいねぇ」という大胆なプロダクション・センスは微塵も感じられない。日本のアイドル・グループがソウルっぽいのやりました−そんなレヴェル。

 そしてなによりもニュー・ラディカルズことグレッグ・アレキサンダー青年の声が...のれる様な、のれない様な複雑な気持ちで聴き進んで行って、シングルカットされた2曲目「ホワット・ユー・ギヴ」の途中で、「おい、こりゃいくらなんでも!」と声をあげてしまった。NOVAの慰安会?恵比寿の外人バー?ともかく、そんな感じ。フツーの人の、フツーの声。シングルになったということは、これが彼の「自信作」なのか。うーむ...。曲は、自作か。アレンジもプロデュースも...自分。こりゃ全部本人の責任だ。
 ちょっとマジメに書くと、まずキーが合っていないよ。高音の発声がおかしい。歌になっていない。さらに深すぎるリバーブやディレイ(エコー)の多用が超不自然。これじゃ歌の下手さを誤魔化しているように聴こえてしまう。レコーディング上も問題あり。コンプレッサー/リミッターの使い方が下手なのか、全体のサウンドにヴォーカルが馴染んでいないのだ。この3点はこの曲に限らず、全編を通じて気になった。
 辛辣な歌詞が話題になっている様だけれど、「それならオマエはホンモノなんだな!」と逆に突っ込まれてしまうような隙がある...いや、隙だらけではないだろうか。キャリアの長短は問わないが、サウンドについては「老成」したくらいのミュージシャンじゃないと、売れっ子をコキおろす様なことなんて言っちゃダメだよ。

 しかし日本盤のライナーはベタ褒めなんだよな(苦笑)。一見無害に見えるが、唄い出すと一転してきつーいブラック・ジョークをカマしたり、雄叫びを決めたりするのが爽快なんだと。「このグレッグは27歳にしてはかなり童顔で、ステレオタイプのいわゆる"好青年"にすら見える男で...」うん、その印象のまま、毒にも薬にもならないと思うけどなぁ。そのへんにいるガイジンさん。ジャミロクワイを初めて観た時の印象は「うわぁ、糸井重里そっくり!」だったが、そのヴォーカルを聴いてブッタマゲタ。このグレッグ英語学校、あ、いや、グレッグさんは見たまんま。全くタマゲマセンデシタ。御免。

 かくの如く、ヴォーカルって大変なんだよ。私もちょっとだけ歌っていたことがあるから、身に沁みて感じている。「美声」がイイという訳ではない。"最低の声を持った、最高のヴォーカリスト"エルヴィス・コステロの例もある。このグレッグさん、この後どうするのだろう。歌う?続ける?変わる?やめる?...。

 山下氏曰く「シンガーはその妖しのチカラで大切にされ、敬われ、愛される。そういうチカラを持たない奴がシンガーの振りをしてはいけない」...だそうだ。

定成寛 from " サダナリ・デラックス "






See you next month

来月は " Good Oid Choice " 名盤の月です


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