インターネットロックページ共同執筆 新譜/名盤クロスレヴュー |
月刊 ロック・クルセイダーズ No.030 May.'01 |
2001/05/20 Updated |
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今月は名盤の月です Good Old Choice of this month JAMES TAYLOR : In the Pocket WPCR-2596 (wea japan) 1976/1998 | ||
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● 超「いい人」 |
心地いいったらありゃしないソフトな声。これほど人をくつろがせる声を持っている人ってちょっと思い当たらない。あまりに耳当たりが良すぎて聞いている人の気持ち次第では物足りなくなってしまうんじゃないかって声だ。 キャロル・キングのカヴァー「You've got a firend 」が全米1位を記録したこともあるジェイムス・テイラー(以下JT)は1948年3月2日ボストン医者の息子として生まれ、音楽一家で育ったそうだ。15歳のときにはギタリストのダニー・クーチマー(キャロル・キングとバンドを組んだりしているギタリスト)とコンビを組みフォークソング・コンテストで優勝、10代後半にニューヨークに進出し、クーチマーらと“フライング・マシーン”というグループで活動した。 69年にソロへと転向、アルバム『ジェイムス・テイラー』でデビュー、翌70年リリースの『スイート・ベイビー・ジェイムス』が全米3位を記録し、一躍注目を集めるようになったという人である。(ちなみに先述のキャロル・キングのカヴァー「You' ve got a firend 」は71年リリースの3作目『マッド・スライド・スリム』に収録されているが、このアルバムは最近巷でも名盤シリーズの一枚として再発されており、入手しやすくなっております) 実は僕は過去にこのJTのアルバムを買った事がある。アイズレー・ブラザーズのアルバムに収録されていた「Don't let me be lonley tonight」がJTのカバーだという事を知って元ウタの方を聞きたくなったのだ。しかし、元ウタを聞いた時アイズレーのカバーとの差にがっかりし、即座にアルバムを売り飛ばしてしまった。ちなみにこの曲はエリック・クラプトンの最新作で取り上げられているのだが、クラプトンのバージョンがアイズレーのバージョンをヒントに作られていることからしても、おそらく両者を聞き比べてアイズレーの方がいいと思う人の方が多いと思うのだが... 。 で、何が物足りなかったかって言うと、楽曲の持つソウルフルさをこの人の声がまかないきれてないなって思ったのだ。それは歌唱力というよりJTのやわらかい声質が原因だった。やっぱりソウルフルな人っていい意味でも悪い意味でも「アツい」でしょ? そのソフトでやさしい声質のあまり「いい人だと思うけど好きになれない」っていうか、押しが足りなさすぎっていうのが僕のJTに対する認識だった。 ところが、である。今回のお題であるこの『 In The Pocket 』ではその彼の押しの弱さが見事にカバーされている。レニー・ワーロンカーとラス・タイトルマンのプロデュース(この時点で勝負あったって感じだけどね)は、これでもかっていう数のミュージシャンを適材適所に使い分け、JTの楽曲に内包されていたグルーヴを浮かび上がらせる事に成功した。 サウンドの質感こそJTの声質に合わせてソフトなタッチだが、リズムの切れ味は一流のミュージシャンならではの物。アーティストの持ち味をなんら損なうことなくここまでカッコよく仕上げたその手腕は見事としか言い様がない。リズム・メロディー・ハーモニー・サウンドのどの側面から見ても十分満足の行く内容だ。リッキー・リー・ジョーンズのファースト・アルバムの出来さえ凌いでると言ってもいいこの内容はきっとプロデューサーの2人も大満足の仕事ができたのではないだろうか。 なんかこうやって書くとこのアルバムはプロデューサーの2人の力量や参加したミュージシャンのおかげで素晴らしいアルバムになったと思われそうだが、いくらいいプロデューサーを迎えようが、海外から一流ミュージシャンを参加させようが元の素材となるアーティストの音楽がよくなければどーしよもない例はいくらでも聞いたことがあるはずだ。(特にこの国で作られた音楽の中にはね) プロデューサーやミュージシャンに「こいつの曲を手がけてみたい」と思わせた魅力がJTにある事はこのアルバムのインナーにある参加ミュージシャンが一同に会したスナップの中の笑顔が証明している。 「いい人だと思うけど...」って思ってた彼に対する印象がこのアルバムを聞いて「“超”いい人」に変わりました(笑) |
岩井喜昭 from " Music! Music! Music! " |
● 微妙な立ち位置 |
ジェイムス・テイラーの話である。ジェイムス・テイラー・カルテットではない。ただのテイラーである。この原稿を書くにあたってロック本の類いで下調べをしたんだが、いやはや語られてないですねえジェイムス・テイラー。下手すると、彼をサポートしたギタリスト、ダニー・コーチマーの幻のソロアルバムのほうが、語られる頻度としては多いかも知れない。 ジェイムス・テイラーは、ビーチボーイズマニアの間では映画「断絶」でデニス・ウィルソンと共演したことで知られている人物だ。また、精神科系リスナーの間では「同志」としても親しまれている。しかしそんな重箱の隅をつつくまでもなく、彼は本国アメリカでは30年以上もヒットチャートにいる定番アーティストである。ロックが一部マニアのおもちゃになってしまったここジャパンでは、どうやら彼のようなスタンダードは生き残り難いようだ。音楽を聴かない人にはジェイムス・ブラウンと間違われ、マニアにとってはメジャー過ぎて手も出ない。もったいない話だと思う。 ジェイムス・テイラーの存在が広く知られるようになったのは1970年のこと。フラワー気分もすっかり冷めて、祭りの後の沈黙をどうしたものかという時期に、タイミングよく内省的なポップソングを吹き込んだのだ。今回ご紹介する「In The Pocket」は1976年の作品、ジェイムスが商業的に大成功をおさめ、ひと息ついた頃のアルバムだ。初期のピリピリした緊張感が薄れ、サウンド的にもそろそろ飽きられそうな時期。 ここでプロデューサーに迎えられたのは、またしてもレニー・ワロンカーとラス・タイトルマンである。「またしても」と書かざるを得ないほど、このロッククルセイダーズでは異常に登場率の高い2人、オーケストラとスタジオのマジックを駆使した、いわゆるバーバンクサウンドの担い手である。そしてストリングスアレンジを担当したのは、またしてもニック・デカロ。「またしても」と書かざるを得ないほど、このロッククルセイダーズでは...。つまりこのアルバムは、本来スカスカだったジェイムスの音楽を、ロッククルセイダーズ好みにデコレートしたものと思っていい。 初期のジェイムスの音楽は、アコースティックギターとボーカルが全てを語っていた。それはもう、アコースティックギターという楽器そのものの印象を、根底から覆すほどに語りまくっていた。前述のダニー・コーチマーを中心としたバックバンドも、控え目だが控え目なりに語りまくっていた。正直なところ、初めて聴いた時はずいぶん地味な音楽に聴こえたものだが、聴きこむほどにまにまに広がる微妙な表情に魅かれていった。特に1972年のアルバム「One Man Dog」は、アメリカの「Hosono House」である。必聴。 少ない音数で懐の広さを感じさせる彼らの魅力がどこにあるのか、実は音楽理論的に説明がつくらしい。が、僕は単純に「音がいい」せいではないかと思う。弾むギターの音がいい、物憂げでも意志の強そうな歌声がいい、ドラムの空気感がいい。音と音に隙き間があるから、スカスカだからこそグルーヴを感じるのだ。そういう大前提の元に、きっと難しい和声理論が乗っかって、初期のジェイムスのサウンドが産まれたのだろう。 で、話題はデコレート後の「In The Pocket」に戻るのだが。これがなんとも微妙な1枚なのだ。よくも悪くもソフィスティケイトされて、70年代後半らしい商売っ気が感じられる。ゆらゆら揺れるフェンダーローズに、ニック・デカロの甘いストリングス、そして豪華ゲスト陣のコーラス。でも、化粧がくどくなる寸前で押さえてられているのは、ジェイムスその人の音に対する良心があったからだと思う。バーバンクの風を受け取ったジェイムスは、その風に飲み込まれることなくギリギリかわして、自分の音楽の追い風にした。 このアルバムは、彼が本来持っていたソウルフルな資質をわかりやすく伝えてくれる。入門編としてはこれくらいがちょうどいいのかも知れない。さて、どうやって薦めたものか。ソフトロックと呼ぶには影があるし、フォーキーと呼ぶにはマイルド過ぎる(などと考えているうちに、日本のロックファン層は閉じていくのだろう)。 そうそう、目下の最新作「Hourglass」も最高だった。ジェイムス・テイラーはバリバリ現役である。ジェイムス・テイラー・カルテットではない。ただのテイラーである。彼のような存在を、おやじ共の想い出話にしとくのはもったいない。実にもったいない。 |
山下スキル from " FLIP SIDE of the moon " |
● 歌声の愉しみ |
いつもは名作、新作にまつわるヨモヤマ話、というか、与太話みたいなのばかりしているサダナリですが、今回は、挑戦!ことばで伝えるJTサウンド! なんでこんなことを言うかというと「ジェイムス・テイラーの'76年の作品」と聞いて、どんな感じのサウンドか想像が付く人って少ないですよね。残念ながら。ジェイムス・テイラーは「シンガー・ソングライター」というジャンルを説明する時に必ず必ず名前が挙がるアメリカの重鎮。でも今や日本ではほとんど知られていない、というか「聴かれていない」んじゃないかな?少なくとも若い人には。本当に残念ながら。 これは歌を楽しみ、音を楽しむアルバムだ、という気がする。この作品の主役は、なによりもJTの歌声だ。見事なくらいにシンプルなバッキングに、ともかく彼の歌声が引き立つ。例えば5「エブリバディ・ハズ・ザ・ブルース」なんて、バッキングはリズムと軽いブラスだけ。メロディを、曲を作りだしているのはまさに彼の歌声なのだ。「独壇場」という感じがする。 ほかの曲もそんな感じ。「だからどうした」、「ソングライターなんだから当たり前だろう」と言われるかもしれないけれど、今、ないじゃないですか。こういう音楽の構造って。 音楽をジャンル論、構造論で語ってもいいんじゃないかと思う。特に最近、つくずくそう思う。ちょっとJTから逸れるが、例えばピチカート・ファイヴ。この3月末に惜しくも解散してしまった彼らだけれど、人がなぜあそこまでピチカートを認めていたか。彼らは「歌謡曲不在の時代の歌謡曲」だったのだ。ヒットチャートの上位は「J−POP」ばかり。あとはわずかに演歌。ロックでも演歌でもない、「作曲・都倉俊一、作詩・阿久悠」といった感じの歌謡曲はすっかりなくなってしまったからね。そこに「作詩作曲・小西康陽」の歌謡曲、じゃなかったピチカートのナンバー(特に野宮時代中期以降)が登場したというわけだ。 するとだ、ソングライター不在の時代に、例えばこのJTに代わるような存在、「ソングライター不在の時代のソングライター」がいるかというと...残念、無念、いないように思う。街角でギター掻き鳴らしている少年たちは、これには当てはまらない。JTの音楽はああいう「若くてぶきっちょな魂の叫び」ではない。ロックをソウルをジャズを吸収した、極めて職人ライクな大人のサウンドだ。たった今、ふと浮かんだのだが、実は杉真理とか、この路線狙ってたのかな?もしかして。 おいおい、「ことばで伝えるJTサウンド」はどこへ行った?まずは「ともかく歌が飛び出している」サウンドだというのはお判り頂けたと思う。あとはギターだな。アコギとエレキの使い分けが見事である。そしていずれも音がイイ!エレキの音はいかにも'70年代中盤以降という感じ。'60年代の王道ロックとも、'80年代以降のペキペキサウンドとも違う、実にマッタリしたサウンド(ワウ&フランジャーアリマス)である。 ブラスもエレピも恐ろしくシンプルである。「必要最小限」という感じ。なにしろメロディーがしっかりしていて、サウンドの半分以上はJTの歌声なので、それにそっと「寄り添っている」、「付いてくる」だけでしっかりとした「曲」になってしまうのだ。プロデューサーはレニー・ワロンカーとラス・タイトルマン、アレンジは我が最愛のニック・デカロ。完璧だな、このフォーメーションは。 ソングライターと言っても、フォーク系やAOR系の曲調だけではない。11「ファミリー・マン」ではフィフス・ディメンションを思わせるソウルもやったりしている。「思わせる」というか、この曲、フィフスの「カーペット・マン」が元ネタでしょう、絶対に(笑)。 こんな、(イイ意味で)構造が丸見えみたいな音楽もイイもんだねぇ。エルヴィス・コステロが'84年に『グッドバイ・クルエル・ワールド』を発表した時に、「アレンジが凝り過ぎで音楽がくぐもっている」と随分叩かれたもんだけれど(コステロの同作品は15年以上経って聴いてみるとむしろ単純過ぎるくらいなのだが)、今や音楽はくぐもりまくり。そんな時代に、こんなにクリアーなJTを聴くと、本当にココロアラワレル気持ちがする。 結局、彼のサウンドをことばで伝えることはうまく行かなかったけれど、みなさんが想像するいかなるサウンドよりも、クリアで新鮮、ということだけ、念押ししときます。日曜日の夕方、5時から7時向き。 |
定成寛 from " サダナリ・デラックス " |
See you next month
来月は " Brand New Choice " 新譜の月です
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Japan
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