インターネットロックページ共同執筆 新譜/名盤クロスレヴュー
月刊 ロック・クルセイダーズ No.026 Jan.'01
2001/01/20 Updated







今月は名盤の月です
Good Old Choice of this month

TODD RUNDGREN : A Cappella

WPCP-3127 (Warner) 1985



ひとりよがりにならないで 

 アルバムを聴いていてふと山下達郎のアカペラ・アルバム「オン・ザ・ストリート・コーナー」のことを思い出した。(同じアカペラ・アルバムでも内容はかなり違うが)
 山下達郎とトッド・ラングレン、この2人にはいくつかの共通点を見い出すことができる。

  ・ミュージシャン関係にも尊敬される高い音楽性
  ・広く深い音楽知識
  ・素晴らしい声と歌唱力
  ・ポップさとマニアックさの二面性の同居
  ・他人をプロデュースしてヒットさせた経験を持っている

 このようにいくつかの共通点を持つ2人だが、決定的に違う点がある。それは山下達郎はアルバムを出せば人は「売れるだろう」と期待するがトッドがアルバムを出しても人は「売れるだろう」と期待はしないということだ。

 先述したミュージシャンとしての共通項を思うと一体この差はどこから来るのだろう?と考えながら今回のお題であるこのアルバムを聴いていたのだが、聴き終えてなんとなく納得できてしまった。よくも悪くもアーティストとしての音楽的エゴが強すぎて客観性にかけるのである。“この人は聴く人の顔なんて見えてないだろうな”って思えてしまうのだ。

 なんでここまで言うかというと、ひとつひとつのピースはとても素晴らしいのに全体で聴くとバランスが悪いから「もったいない」と思ってしまうのである。特にヴォーカリストとしてはほんとに素晴らしいだけにその思いは強くなるばかりだ。
 ドゥ・ワップ調の4曲目の『 Hodja 』なんて楽しい曲もあるし、6曲目の『 Some thing to fall back on 』の歌声なんてダリル・ホール級にうまくてブルー・アイド・ソウル・シンガーとして超一流。『 We are the World 』にでもでてりゃ「あれ、誰?かっこいい!」と世間の注目を浴びたんじゃないかって思うぐらい素晴らしい。
 9曲目の『 Honeset Work 』ではぐっと押さえながらもその歌詞の意味をかみしめたくなるような聞かせ方をするし、10曲目の『 Mighty Love 』ではサビをえんえん繰り返しながらテンションをあげていくところはゴスペルに通じる高揚感がある。(私的な事だが名古屋でアマチュアのゴスペル・クワイアでギターを弾いてることもあって、ふとこの曲をカバーできないかと考えてしまった)

 サウンド面でもその実験性はおもしろいと思う。確かにこれらの曲をそのまま普通にやれば、まんまブルー・アイド・ソウルだったり、ロックだったりして別にこの人じゃなくてもやれないことはないかも知れない。そういう意味ではこういう曲をこういうテイストでやってしまうとこにこの人のワン&オンリーがあるわけで、それはそれでいいんだけど、あまりにもオレ様ワールドが強すぎる。(少なくとも僕にとってはそうだ)

 別に聴き手にこびろと言うわけではないし、自分がいいと思うものを出せばいいと思うけど、それと同時に聴き手の対象として他者の存在があるような客観性を持って自分の作品を批評する部分というのは必要じゃないだろうか。そこが先述の『山下達郎にあって、トッドにないもの』じゃないかという気がするのだ。
 誤解をおそれずに言えばこのアルバムのトッドは僕から言わせれば「他者に厳しく、自分に甘いアーティスト」という感じを受ける。もっともこれだけの作品をつくる過程でのクオリティへのジャッジはか普通のミュージシャンからしてみれば高かったと思うが、「全能の人」と称される彼の実力を思えば決してツライ努力を強いるものではなかったのではないか。
 過去彼にプロデュースされたアーティスト(ホール&オーツやXTC)が作品上は高い評価を得ながらも再びトッドにプロデュースを依頼しにいかないのはトッドのプロデュース面におけるジャッジに客観性が少ない(例えばアーティスト本人の意向に耳を貸さないとか)と感じたからではないだろうか。プロデュースされる側だって「トッドに気に入ってもらえたら、他の人の評価はどうでもいい」とは思ってないだろうしね。

 「僕は、アーチストとして、ソングライターとして、シングル・レコードを作ろうとしたことは一度もなかったんだ」と言ってしまう彼の心はどこかひとりよがりではないのか。少なくとも自分の楽曲がレコードなりCDとして販売される事実、それは言い換えれば「作品ではなく商品として世に出される」という側面もあるという事実を認める事も必要ではないかなと思うである。
 というわけであえて僕は★ひとつしか付けません。でも歌は文句無しの★4つです。

岩井喜昭 from " Music! Music! Music! "



2001年に振り返るLong Long Ago 

 僕はトッド・ラングレンというミュージシャンがとっても好き、という訳ではないが別に嫌いという訳でもない。こういう場合、普通は「どうでもいい」と表現するのだが、不思議なことにどうでもいい訳でもないのだ。彼が次なる一手を指したと聞けば気もそぞろになる。つまり、とっても好きでもとっても嫌いでもないがとっても気になる奇特な存在だ。似たような例に日本の山下達郎がいる(顔も似ているような気がする)。
 彼が70年代に残した甘いメロディを、ポップスファンの僕は素直に好きと言える。しかし彼はそこに留まることをしなかった。エンジニア・プロデューサーとしても話題を呼び、果てはマックのスクリーンセイバーを発表して度胆を抜いたのは92年頃だったか。メディアが普及しなかったために失敗に終わったCD-Iアルバムや、インタラクティブ・ライブ、そしてネット配信。彼の試みは、コンテンツ業界の端くれ者としての僕の関心をひいた。
 一人多重録音と平行してバンドの一員としても活動し、ミュージシャンの耳でエンジニアまでこなす。器用すぎてなんか可愛げがない。ラウドなロックからリリカルなバラードまで、コンピュータからオーケストラまで、彼にはやりたいことが多すぎて、我々凡人には全てを受け止められないのだ。だから僕はトッドが聴きたくなった時、オリジナルアルバムではなく橋本徹氏のコンピレーションをかけてしまう。

 85年のアルバム「A CAPPELLA」は、自分のボーカルをサンプリングして、全てのパートを声だけで表現してしまうという企画ものだ。久しぶりに聴いてみて、正直なところ最初は、これはストリートの面白さに欠けるドゥワップだし、密室の面白さに欠ける宅録だと思った。しかし何度も聴き返すうちに、1985年という時代を思い浮かべてなんだか微笑ましい気持ちになった。彼は本当に未来が大好き、新しいものが大好きなのだ。サンプリングという手法そのものにまだ意味があった時代。未来になってしまった今から見れば、パスト・フューチャーと呼ばれるものたちに共通の感触。流線形をした未来への憧れ。
 しかし彼のサンプリングのセンスは、未来だけを見つめていたArt of Noiseあたりとはだいぶ趣きが違う。トッドはサンプラーというおもちゃを手に入れて、これで過去と未来をひとまたぎに出来ると思ったに違いない。未来だけを見つめるほどシンプルな人間になれないトッドは、ケチャを思わせるエスニックなリズムから、逃れることの出来ないルーツ = ブルー・アイド・ソウルまでを、いかにも未来の音ですと言わんばかりに加工して編集してみせた。つまり1985年の段階で、意図的にパスト・フューチャーの面白さを提示しているのだ。
 彼自身の金属的な声質も、成功の大きな鍵だろう。トッドは複雑なメロディをさらりと歌いこなす素晴らしいボーカリストだが、エフェクトをかけすぎてしまうせいか、長いアゴに共鳴してしまうせいか、ブルー・アイド・ソウルと呼ぶにはちょっと固すぎて情感に欠けるのだ。彼が大ヒットに恵まれなかったのは、この声質のせいではないかと思う。ところがこの声が、「A CAPPELLA」の試みの中では、Man - Machineをつなぐ格好の素材になっている。落ち着きのない彼の興味の鉾先は、独特の声質のおかげでしっくりとまとまった。

 「A CAPPELLA」は、トッドのパフォーマーとしての肉体とエンジニアとしての知性、膨大なルーツと新しいもの好きの性癖が、無理なく融合した貴重な1枚だ。「Something / Anything? 」などなど70年代のソロアルバムは確かに素晴らしいが、その影で忘れられがちな彼のSons of 1985も、そろそろ再評価されていい頃だと思う。21世紀だし。

追記:今回この原稿を書くにあたって、彼がジャケット写真の中で日本の学生服を着用していることに初めて気がついた。仮面に隠しきれなかったアゴにばかり気を取られて、日本人として突っ込むべきポイントを見逃していた。やっぱり凡人には理解しがたいセンスの持ち主であることを再確認。

山下元裕 from  " FLIP SIDE of the moon "



讃えよポップ職人 

 とても不思議なことがある。人はみなポップな音楽が大好きだ。実験的なヤツ、難解なヤツよりもわかり易くてノリのいいポップスが好き。なのに「ポップ」のうしろに「職人」の文字が付いてしまうと一転、知る人ぞ知る存在になってしまう。なぜでしょ?
 困っているのだ。わかり難い音楽ならば仕方がないが、ポップを究めた様な何人かのアーティストをみんなが聴いてくれないことを。なにしろ私は、あのテのポップの職人が大好きなのだから。知って欲しい、聴いて欲しいと切望して止まず、はや十数年という感じだ。
 例えばルイ・フィリップ、トット・テイラー、トニー・マンスフィールドにアンディ・パートリッヂ等々、さすがにマーティン・ニューウェルまでくるとマニアックかな?そしてそのポップの職人の代表格がこのトッド・ラングレンだろう。ラブ。

 変わった人である。まずいきなりアゴが巨大だ。デビューは古く'67年。在籍したグループ「ナッズ」はアイドル・バンドにカテゴライズされている。その後、ポップスに目覚め(?)職人への道を歩む。『サムシング/エニシング?』('72)や『魔法使いは真実のスター』('73)、『未来から来たトッド』('74)などロック史上に燦然と輝く名盤の数々をモノにし、ソロと並行してバンド「ユートピア」でも活動。こういう人が出てくるところがアメリカン・ロックの面白いところだなぁ。いや、考えてみれば、かのビートルズだって最初は超アイドルだったわけで...。さしずめ日本ならば、ロカビリーやGSから職人に転じた人は誰がいただろうってなところだ(ムッシュかまやつ?)。

 話を元に戻して、トッドである。この名盤『ア・カペラ』、数ある彼のアルバムの中でも一番売れ行きが悪かったらしい。なんでだ?トッド・マニヤさん(あちこちに結構生息。ウルサめの人種)の間でも彼の最高傑作は前出の'70年代作とされており、このアルバムの評判は「まぁまぁじゃないッスか?」というレベルである。なんでだ?なんでだ?
 まずはタイトルに注目していただきたい。このアルバム、当時登場5年目くらいのサンプリング技術をフル活用、ドラムセット、ベース、キーボードなど全てのパートがトッド本人の「声」で創られているのだ。ではドゥ・ワップ、コーラス・グループのようなサウンドかというと、あえて狙ってそうした曲もあれば、まるでロックバンドというアレンジの曲もある。
 このアルバムのセールス不振には当のトッド自身が非常に不満だったそうだ。「徹底的ににやりたいことをやったのに、なぜか売れない!」と。ほんと、なんでだ?決して聴き難くはない。ノリの良い名曲が多く、中にはじっくりと聴かせるナンバーもある。そして強烈な懐かしさに満ちた曲もある。ウチの家族なんて、遠出の時にカーステレオでかけているぞ。60歳過ぎのオヤヂがハンドルを叩いてノッてしまうくらいの聴き易さである。
 しかし手法は前述の通り極めて斬新。「新しさとポピュラリティを併せ持ったものこそ名盤である」(サダナリ持論)と考えれば、これ以上の名盤はないのではないか?とは言い過ぎか。ラブラブ。

 ちょっと変わった耳触りに、意外に保守的なアメリカ人が付いて来れなかったのだろうな。トッドはこの直後に「ア・カペラ・ライヴ・ツアー」を行った。全米公演にはなんと黒人のコーラス・グループが同行。サンプリングと多重録音によって作られていたトッドのパートを、彼らがナマで歌った。
 その模様はブートレグ(海賊版)CDとなり、日本にも500枚だけ輸入された。どういうわけだかそのうちの1枚が我が家にあるのだが、これが、もう、熱狂のウズ!こうやってトッドの「やりたかったこと」をわかりやすーく表現してやると熱狂するのだな、ヤツラは(笑)。じゃCDの段階で理解して買ってやれよ!と言いたくもなるが、そこらへんがアメリカジ〜ンの限界か?発表当時の日本での評判がなべて好意的だったことと考え合わせると、日米のリスナー、音楽メディアの違いも知ることが出来る。ふふふのふ。

 しかし、トッドの「やりたいこと」はこのあと難解化。ライヴ一発録りレコーディングはともかく、変名テクノやインターネットのみの新曲配信、南の島への移住など、どんどん我々から遠いところに行ってしまう気もする。
 私はこの'85、'86年頃のトッドが好きだ。テクノロジーと肉声との間を行きつ戻りつしていたトッドのセンスが、私の感覚にはしっくり来る。
 こういうポップスもあるのだ。TVや映画、CMと大々的に連動しないから(映画音楽はあのジム・キャリー作品での実績もあるが)、名前を知るチャンスがないだけかもしれない。ともかく『ア・カペラ』。聴いてください。

定成寛 from " サダナリ・デラックス "






See you next month

来月は " Brand New Choice " 新譜の月です


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