インターネットロックページ共同執筆 新譜/名盤クロスレヴュー
月刊 ロック・クルセイダーズ No.018 May.'00
2000/05/20 Updated







今月は新譜の月です
Brand New Choice of this month

the dylan group:
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PCD-24011 (P-VINE) 1999/02/25



耳と耳で通じ合えたら

 今年の2月からアマチュアのゴスペル・クワイアのバックでギターを弾いているのだが、改めて“人の声”の素晴らしさを実感しているところだ。シロートの集まりでも40人が気持ちを込めて歌うとやっぱりガツーンと来るもんです。
 そんな事を最近思っている私の所へ届いた今回のお題がこのディランズ、インストものじゃないですか。あちゃー。実はそもそもロックに限らず他のジャンルにおいても「歌」のないインストものには私は正直あまりいい印象を持っていない。理由はそれまで聞いたほとんどのインストバンドが多かれ少なかれテクニック至上主義みたいなところを感じたからだ。歌モノでも「あたしはこ〜んなに高い声が出るのよ〜」とばかりに声を張り上げるバカも嫌いだけど。

 さて、そんなネガティヴな先入感を抱きながらもおそるおそるCDをデッキに乗せる。スタートと同時に飛び出してきたのはビブラフォンの音。「へぇ〜、めずらしいじゃん」と思いながら聴いているとあっという間にどんどん曲は進んでいく。「いいじゃん、いいじゃん♪」
 ディランズには私の嫌いなインストバンド達と違い、テクニックをひけらかさない。むしろ、音の響きを非常に大切にしたアレンジで曲を聴かせていく。楽器を弾くことに喜びを見い出すプレイヤーとしてではく、正に「音を楽しむ」音楽家としての資質が出ているバンドだと言っていいだろう。ひとつひとつのフレーズにしてもメロディーを鳴らしているというより、その音をどこまで伸ばしてどこで切るかということに重きを置かれている印象を受ける。個々のフレーズは耳に残らないが、そのフレーズが生み出す映像みたいなものはすごく感じるのだ。作られる音の世界は全く違うが、ビル・フリーゼルやブライアン・イーノなどに通じるものがある気がする。

 そういった感じで聴いているとこのディランズ、何故に「インスト」バンドという形をとったかというのもわかるような気もしてきた。以前、坂本龍一氏が何かのインタビューで「いくら自分のサウンドを構築しても、そこにイギー・ポップのヴォーカルが乗ってしまえばイギーのサウンドになってしまう」みたいなことを言っていたのを読んだことがあるが、ディランズも自分達のサウンドが特定のヴォーカルによって色を決められてしまうのを不自由に思ったのではないか。
 インストなら聴いている者のイマジネーションが働く(働かない人はとりあえず置いといて)ものも、そこに楽器に比べればトーンのヴァリエーションが少ないくせにかなりのイメージの決定打を持つヴォーカルが乗ってしまうのはウザい。何よりもそこに“歌詞”という言葉によるイメージの伝達手段が乗ってしまうとあれば、聴き手のイメージをさらに固定することにもつながるわけで、ウザいことこの上ないのではないだろうか。

 送り手も聴き手も「音」を聴き、個々のイマジネーションを働かせていく。「言葉」という伝達手段を使わなくても相手と心が通じる時もある。そして「言葉と言葉」よりも、「目と目」よりも、そこに鳴らされたサウンドに「耳と耳」で通じ合う事ができるなんて、神秘的だし素敵な事じゃないかと思ってしまった。
 しょーもない流行り言葉を乗せてカラオケで歌ってもらうことを想定した曲を聞かされた時の口(耳)なおしにはディランズをお薦めしますよ、お客さん!

岩井喜昭 from " Music! Music! Music! "



刺激と安らぎが同居する、
古くて新しい不思議なアルバム 

 視聴機がふさがってたのに即買いしてしまった。The Orbの「Towers Of Dub」をヴィブラフォンでカヴァーとか言われたら買うしかないでしょう。ああこいつら何を考えているんだが。この気の抜けたアイデアだけで既に名盤のような気がしてくるから不思議だが、聴いてみたら案の定の抜け具合ですこぶる快適であった。

 スピーカーから音が流れ出てきて真っ先に思い出したのは、スティーヴ・ライヒのミニマルミュージックだ。特にマリンバのやつ。そう思ってライヒのアルバムを引っぱり出してよくよく聴き比べてみたら全然違うじゃないの。例えばライヒの「Six Marimbas」からは、ガムランのように拍のずれから主題を浮き彫りにしようという意図が、「Nagoya Marimbas」からは東洋的な調性への興味が見えてくるのだが、ディラン・グループはただただ心地いいからやっているに違いない。通り雨のような泡のような音の粒が、プカプカと空にかえってゆくような、無意識の中の無気力な快楽だ。
 そんな緩やかな響きの海はやがて、やけに生々しいドラムに溶け込み、3日も続くジャムセッションのようなけだるいロックインストロメンタルへとすりかわってゆく。ドラマチックなメロディがあるわけではないが、たださらさらと流れていくだけでもない。ミニマルなフレーズのひとつひとつが力強いフックを持っているのだ。クールでダウナーな演奏なのに、隙き間だらけでナチュラルで楽しくて。ヘッドフォンステレオに放り込んで街を歩いてもよし、家に帰って疲れた体に素通りさせてもよし、ライヴに行ったらそれはそれで熱いステージを見せてくれるのではないか。刺激と安らぎが同居するオールマイティな音楽だ。
 この絶妙なバランス感覚はいったいどこからやってくるのだろう。やっぱり重心の低さ、豊富な音楽体験がずっしりとあるに違いない。例えば、色んな素材の刺激的な部分をかき集めてコラージュすれば、ベックのようにキャッチ−なポップスができあがるだろう。ディラン・グループの演奏には、ジャズからエスニックから音響系から実に様々な音楽の影響が見え隠れするのだが、素材の特徴を引き出すのではなく逆に全部ぶっつけて均してしまっているのだ。ジャガイモやらニンジンやら原形がわからなくなるまでじっくり煮詰めたカレーのように、さらりとなめらかなのにコクがある。

 そういえば彼らがカバーしたThe Orbの音楽や、当時のアンビエントミュージックに感じていたのもそんなことだった。漂う音の海に浸る心地よさ、美しさ、楽しさ。その影にはサイケやプログレや現代音楽が見えた。ただ当時のアンビエントシーンがかっこ悪かったのは、強迫観念的なまでに新しがりだったところだ。言葉からもメロディからもハーモニーからも解放された僕ら、みたいな。自由を標榜する割にはあまりにも排他的な語り手たちに潰されちゃったようなとこないですか。実はディラン・グループの最大の魅力は、そんな風にスノッブな感じが全然しないところ、センスのよさをひけらかさないところ、うますぎちゃいけないことをわかってるところにあると思う。
 ところで、このアルバムをロック・クルセイダーズで取りあげたのは、彼らの音楽がまごうことなきロックだと思ったからだ。根拠は内ジャケットのメンバー写真。半端な髭の生やし方と、ぬるい悩みを抱えてそうなキレの悪い笑顔は極めてロック的だと言えよう。前向きで新しがってるだけじゃロックにはならないのだ。これくらい情けない顔ができなくては。テクノくんたちは今はもう、アンビエントはなかったことにしているようだが、案外こんな形で生き残っているんじゃないだろうか。既存の音楽を搾取してきたロックは、後発の音楽さえも搾取して成長を続ける。

山下元裕 from " POYOPOYO RECORD "



意欲は買うが残念賞? 

 先日発見したこと。ジャズとロックの違い。ジャズはおおむね楽器編成が決まっていて、だいたい似た様な音が出てくるが、ロックは特にキマリなし。シンセやらなにやらを使うと音色も自由。「まずどんな音を組み合わせるか」から考えるのがロック。
 もちろんジャズにだって例外は沢山ある。ホラ貝やバグパイプや自作楽器で演る人もいて、音のバリエーションは無限に近いが、でも、まぁ、なんとなくジャズ・フォーマットみたいなものはある。それに比べるとロック、特にシンセ&サンプリング登場以降のロックってタイヘンだよ。まずどんな音を出そうかってところから考えなきゃいけないんだから。

 さて、そこで、ディラン・グループ。なるほどねぇ。こういう編成があったか。ドラムやベースなど通常のロック・バンド編成になぜかヴィブラフォン。ヴォーカルはナシ。そしてエコーを多様したダブ加工。まずこういうフォーマットでロックを演ろうと思いつくこと、実際に演ってしまったというところが努力賞。

 しかしこの作品はそんな意欲的な連中が陥り易いワナにもハマっている様な気がする。曲中の至る所に見られる「無意味なリフ」である。なーんとなくドラムが続き、なーんとなくベースラインが繰り返される。インスト系バンド、特にダブなどを絡ませるとついやってしまうワナだ。私は自分でも演奏をするのでよーくわかるが、コレ、演ってる本人はめちゃくちゃ気持ちいいんですよね(苦笑)。何分でも続けちゃう。でも聴いてる側はちょっとなぁ。ライヴならばそれなりのトランス感なども沸いて来るのかもしれないが、CDで聴くとかなりツライ。もう少しアレンジに緊張感があれば反復の快感に浸れるのかもしれないが...。

 ちなみに私がサウンド的に「近いかな」と思ったのは人気絶頂のテクノ・ユニット、ステレオ・ラブと、ドイツのプログレ&エスニック系バンド、ポポル・ヴゥ。まずステレオ・ラブと比較すると、前述の反復の問題が如実に気になる。やっぱりアレンジが甘いよ。ステレオ・ラブの陶酔的快感には程遠いなぁ。次にポポル・ヴゥとの比較。うーむ、今度はメロディの問題が顕れる。わずか1、2小節の繰り返しフレーズでも、グっと来るメロディーラインって書けるんだけどな。ポポル・ヴゥは本当にそうしたメロディが巧く、ディラン・グループにはそれが見受けられない。
 来日ライヴでは意外にもハードな演奏を繰り広げて、オーディエンスを驚かせたらしい。ライヴ評は概ね好評。確かに彼らのサウンドは大音量でルーズに演奏した方がいいと思う。いきなり決定的な結論だが、実はCD向きではないのかもしれない。

 音楽面をどんどん書く。変則的な編成やサウンドで頂点を究めたのはなんといってもフランク・ザッパ大先生だろう。天の調べの様なザッパの場合には、その根底にクラシックがあり、現代音楽があり、ジャズがあった。このディラン・グループの場合には...あんまりそういうこだわりはないんだろうな。オルタナとアンビエントの次に来るもの、みたいな感じでこういう編成を考えたのかもしれない。ライヒやグラスなどの現代音楽の影響もあるのかもしれないが、なんか、あっち(現代音楽)の方が旋律的にしっかりしていて、よっぽどロック的に聴こえるというパラドックスも感じる。
 ともかく、こう、なんか、シャキっとせんのだ。ザッパにあった強烈なまでの音楽的構造の強固さもないし、ステレオ・ラブの様な軽妙な浮遊感にも欠ける。あぁ、なんとも掴み所がない...(なんとなく、文章も、巧くまとまらない・苦笑)。

 というわけで、最終的には「意欲は買うが残念賞」。ロックの特権をフルに活かしたユニークな発想は評価するけれど、音楽として人を惹き付けて聴かせる、唸らせるためにはイマ一歩の努力、というか何らかのブレークスルーが必要なのではないだろうか。他の人はそれなりに評価するかもしれないが、私は特にこだわりのある領域ゆえ、少々辛めに...。

定成寛 from " サダナリ・デラックス "






See you next month

来月は " Good Oid Choice " 名盤の月です


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