インターネットロックページ共同執筆 新譜/名盤クロスレヴュー
月刊 ロック・クルセイダーズ No.017 Apr.'00
2000/04/20 Updated







今月は名盤の月です
Good Old Choice of this month

TALKING HEADS :
More Songs About Buildings and Food


WPCR-2662 (wea) 1978 / 1998



頭で勝負してます

 デザイン系の学生だったデイヴィッド・バーンとクリス・フランツ、ティナ・ウェイマスがバンドを結成、ニューヨークのライブハウスでラモーンズの前座をつとめ、その後ジェリー・ハリスンを加え1977年にデビュー。80年に入りファンクやワールド・ミュージックのエッセンスを取り入れた「リメイン・イン・ライト」を発表、その後1983年にはジョナサン・デミを制作スタッフに招いて作ったライブフィルム「ストップ・メイキング・センス」でポップ/ニューウェイヴの歴史に名を残すバンドとなったのはご存じの方も多いだろう。
 実は今回この「ロック・クルセイダーズ」の名盤チョイスには「ストップ・メイキング・センス」をあげようかとも思ったのだが(ちょうどスペシャル・エディション版も発売されたしね)やはりあれは映像作品としてまず見るべきだろうということで今回はあえて外し、彼等が1978年に発表したセカンド・アルバム「モア・ソングス.. .」をチョイスしてみたというわけだ。

 今でこそこの手のアレンジなどイナタく感じてしまうが、78年の時点でこれをやっていたことを考えれば彼等のセンスを多くのバンドが真似たなと感じる部分が多々あることに改めて驚いた。
 ヒネクレていながらもポップに聞かせてしまう彼等の音楽には、己の資質や趣味趣向を客観視し、他者との距離を計りながら相手にわかるように見せていくという非常に「デザイン」としての視点があるように思う。それはおせじにもうまいとはいえない楽器の演奏力を本人達が自覚した(であろう)上で鳴らされた無駄のないアレンジからも伺うことができる。と同時にファンクやこのあと取り入れるワールド・ミュージックのエッセンスを彼等が取り入れることができたのも、「デザイン」の目で他ジャンルの音楽のカッコイイと思えるリズム・メロディー・ハーモニーなどを批評分析できたからではないかと思えるのだ。
 それぞれのスタイルの本質を見抜いておいしいところだけを搾取した結果、された側から音楽の寄生虫扱いされることもあったが、彼等にしてみれば「カッコイイものを盗んで何が悪い」と言う部分もあったのではないだろうかという気がする。それは個々の音楽への関わり方の美意識や価値観に関係するものだから好みの問題であって、彼等の音楽への取り組みが悪いというわけではないと思う。彼等がオリジナルに対してどれだけ敬意を持っていたかは知らないが、少なくとも僕はこのアルバムに収録されている「テイク・ミー・トゥ・ザ・リバー」でアル・グリーンを知ったからとりあえず「きっかけをくれてありがとう」という感じなのだが。

 もっとも78年に出された作品として聞いているからオッケーな部分も多々ある。今こんなような音を出しているバンドがいたら「アタマ悪そう」だと僕は感じるだろう。音楽の異種交配なんて今や当たり前どころかそれをウリにすることさえイナタく思えるこのご時世には、どこかのどかに感じてしまう中途半端なミクスチャー・ロックだなと言わざるを得ない。
 しかし、音の古臭さを差し引いても彼等が音楽を構築する時に基盤となった“センス”というものの源がどこからくるのかをこのアルバムから学ぶことはできるのではないだろうか。

岩井喜昭 from " Music! Music! Music! "



違和感の魔力 

 去年だったかおととしだったか、ブラジルの60年代のバンド、ムタンチスのベストアルバムを聴いて、ふーんベックみたいだなと思ったんだが(どっちかっていうとベックがパクってるわけだが)、そのコンピレーションの選曲を担当したのが元トーキング・ヘッズのデヴィッド・バーンだった。なんか久しぶり。ここ数年のバーンは、ニュー・ウェイヴの最前線にいた時代、映像作家として活動の場を広げていった時代、ブラジル音楽の啓蒙をしていた時代なんかと比べるとちょっと元気がなくて、そう言えばあんまり思い出すこともなかったのだ。で、このムタンチスのアルバムを聴いて改めて思ったのだが、彼の蒔いた種は実はわりと着実に実をつけているんじゃなかろうか。
 さっきも書いたベックの「Mutations」をはじめ、ここ数年は旬のミュージシャン達が示し合わせたようにブラジル音楽に目を向けている。といってもボサノヴァやサンバじゃなく、デヴィッド・バーンの眼差しを経由したと思われる笑えるブラジル音楽だ。ひょっとして再び来るのか、バーンの時代。という憶測を元に、実は僕も彼のアルバムを取り上げようと思っていた。でも、かなりのブラジル好き・バーン好きと思われるサダナリさんを差し置いて迂闊なこと書けねえなあと、しばし傍観していた次第。まさか反対側から「More Songs About Buildings And Food」で迫られるとは思わなかったことよ。つくづくスリリングな連載だ。ちなみに僕だったら、小心者らしくヘッズの代表作「Remain In Light」かバーンのブラジルもの「UH-OH」を選んだと思う。

 そんな訳で、ヘッズ初期の地味めなアルバム「More Songs About Buildings And Food」について書かなくちゃいけないのだが。このアルバムの肝はおそらくアル・グリーンの「Take Me To The River」のカヴァーだろう。そこにこめられた、偉大なるミシシッピ川やメンフィスの街、ソウル・ミュージックへの奇妙な愛情。そんなことを書けばページは埋まるはずなんだがうおおおお書けねええええと無駄に字数を使うのもいたたまれなくなってきたので思ったことを思った順に書く。
 初期ヘッズの音楽は、とても整理されていて無駄がない。煮えたぎるソウルをぶつけて泣きわめくソロなどあろうはずもなく、繊細で鋭角的なリズムを淡々と淡々と奏でるのだ。それがニュー・ウェイヴってもんなのかも知れないが、彼らはニュー・ウェイヴの括りにおさまる前に、一介のソウルマニアだったはず。おいらの魂の行方はどこにあるかといえば、それは彼らの知性にある。トーキング・ヘッズは、リズムの構造というものにものすごく自覚的なバンドなのだ。
 ニュー・ウェイヴらしいパルスの中で、それぞれのリズムパターンを忠実に守るギター。それが幾つも重なると、時計の裏蓋を外して覗きこんだ時のように、ちっちゃなサイクルが寄り集まって大きな運動の美を見せてくれる。考えて考えて、頭の中で組み上げられたソウル・ミュージックだ。それを邪道というなかれ。心の揺らぎを肉体経由で発露するのか、頭脳から発露するのかの違いじゃないか。頭脳は感情の発生源だ。原産地で加工した方がよりストレートで本物だと思わないか?というのはいささか無理な話で、左脳と右脳を綱渡りするより直接肉体に訴えた方がやっぱりストレートに違いない。
 なんか非常にまどろっこしい原稿になりつつあるのだが。まどろっこしいのは彼らの音楽性だ。古新聞を束ねる時のことを思い浮かべていただきたい。新聞を同じ向きに重ねていくと、途中でバランスを崩して倒れちゃうでしょう。反対向き反対向きに交互に重ねていけばきれいに積み上げることができる。ヘッズの音楽はこれと同じことをしているんじゃないだろうか。堅さと柔らかさ、無機と有機、あっちに行くかと思ったら今度は釘をさすようにこっちの要素を加えて、濃密な音楽の山を慎重に慎重に築いていくのだ。

 バーンは最後に、こうして組み上げられた調和さえも否定するようなユーモラスな味つけをする。それはバーン自身の苦しそうなボーカルだ。ニワトリを絞め殺すようなノド声を、彼はどうやって発見したんだろう。うまく発声をコントロールできずに、思わずひっくりかえってしまった瞬間のいら立ちを、やり場もなく自分にぶつけているようにも聴こえる。緻密なトラックと危ういボーカルのギャップが、ヘッズの音楽に吸い込まれそうな魔力を植えつけている。
 とここまで書いて思ったのだが、彼のぎこちないダンスや、ブラジルのリズムを取り入れたいびつな音楽の魅力にも、これとおんなじことが言えるかも知れない。彼は心の底からソウルを愛し、ミシシッピを愛し、ポリリズムを愛し、ブラジルを愛している。なのに彼の手には微妙に届かないところにいる。そのもどかしさとやるせなさが僕らの琴線に触れる。そして彼がそれを手に入れてしまった時、彼の関心はもう次のメディア、次のスタイルに向かっているのだ。全部は計算済みのフィクションかも知れないが。

 ところで、デヴィッド・バーンは自分のことが好きだろうか。

山下元裕 from " POYOPOYO RECORD "



意外に肉体的な実験の成果 

 今、美大生たちは何をやっているのだろうか?課題に追われながら、楽器などいぢり、突飛なサウンドを奏でてくれていたら、嬉しいな。

 「アートスクール・ロック」なんてジャンルはないと思うが、洋の東西を問わずロックの歴史に芸術家の卵たちが残した業績は偉大だ。ジョン・レノンなんてとてつもない巨人もいるが、私が思い出すのは不思議と'80年前後の日本のニューウェーヴ勢である。まずは高橋幸宏が美大中退だったな。イラストレーターの中西俊夫とグラフィック・デザイナーの立花ハジメが大活躍したプラスチックスは美術と音楽の距離をぐっと縮めた。同時期にデビューしたヒカシューの井上誠も美大出身。東京芸大の美術畑には横山忠正(スポイル)、恒松正敏(フリクション)なんてのもいた。ムーンライダーズの弟バンド的にデビューしたカーネーションも美大のバンド。「ネオGS」なんてイカしたムーヴメントも東京三多摩地区の美大が発信源だった。スチャダラやかせきさいだーは、名門、桑沢デザイン研究所出身である。
 いやいや、次々出てくるなぁ。思いつくままにちょっと書いただけなのに、テクノ、パンク、ニューウェイヴからネオGS、J-RAPまでがしっかり繋がってしまった。ううむ...。

 このトーキング・ヘッズもアートスクール系の大御所。なるほど、このサウンドを聴くと「純粋ミュージシャンじゃ出て来ないノリだなぁ」と痛感する。ベタな音楽職人にハマることはなく、それでいて異常にアイディアが豊富(笑)。アートスクール・ロックの神髄はそこにアリ、と観た。巧いのか下手なのかよくわからないが、ともかくがむしゃらに「ヘンなことやってる」のだ。しかしこの「ヘンなこと」こそロックが前進するための重要な推進力なのではないだろうか。書いている間に急に強く確信したぞ(笑)。
 ファンクみたいなのやりたいけど、肉体的に付いて来れなくてなんだか「それらしいの」になってしまたり、ソウルみたいなのやりたけど、これまた習熟したわけではないので「それっぽいの」でオシマイ。でもなぜか気持ちイイ。アラブみたいな、アフリカみたいな、ブラジルみたいな...考えてみるとトーキング・ヘッズの歴史は全てこの「何々っぽいの」の上に成り立っていた様に思う。「まがいものの歴史」と言うなかれ。ストーンズだってR&Bへの憧れからオリジナル・サウンドを生み出したではないか。根源的なサウンドに対する憧れと、表現力の限界、それを埋めるアイディア、あるいは「オレ流」...これこそが「ロック」とは言えないだろうか?

 なんだか壮大な文章になってしまったが、要するに、最近の、妙にお行儀の良いロック・サウンドに不満なのだ。最初から型にはまった「ロック」を狙い、出て来た音はロック以下...なんて書いたら、言い過ぎだろうか。ともかくこういうヘンな音が聴きたいのだ、私は。
 ちょっと残念に思うのは、ファンクっぽいのやりたいぜ!でも楽器出来ないぜ!という若人が、最近はサンプリングを使ってしまうことだ。ファンクのノリを出そうと思ったら、まぁ、スライのリズムでもループさせて、ファンカデリックのリフをアテれば出来上がり、ついでにシャレでアフリカ・バンパータも入れとこか?てな感じだ。このトーキング・ヘッズ・デビューの頃、そうした若人はとりあえず楽器を掴んだ。出来ようが出来まいが、とりあえず弾いた。そんな中から、この様な突飛な奇盤も生まれたりした。

 デビュー当時は肉体的なものを排したクールなニューウェイヴ・サウンドと言われていたけれど、20年を経てこうして振り返ってみると、意外に肉体的な実験を行っていたのだなぁ。
 アルバムの完成度としてはこの2枚あと、'80年にリリースされた『リメイン・イン・ライト』がベスト、入門用としてはロック史に残る傑作ライヴ映画のサントラ『ストップ・メイキング・センス』('83)が最適と考える。この『モア・ソングス』はあまりにペナペナ過ぎる(苦笑)。しかしこの一枚を久々に聴いて、楽器を掴み「ともかく弾いてみる」−バンドという行為を再認識した。美大生よ、これに続け。

定成寛 from " サダナリ・デラックス "






See you next month

来月は " Brand New Choice " 新譜の月です


(C) Written and desined by the Rock Crusaders 1998-2000 Japan





Back to the Index page