Back to the menu

97/09/23
第二回
ちょっと昔の日本のロックを
聴いてみませんか?


久保田麻琴と
夕焼け楽団


'ハワイ・チャンプルー'
(TDTD1056 TDK)


'セカンド・ライン'
(COCA11110 Columbia)


喜納昌吉と
チャンプルーズ


'喜納昌吉と
チャンプルーズ'
(TKCA70396 Tokuma)


'BLOOD LINE'
(PHCL3034 Mercury)


細野晴臣


'はらいそ'
(32XA-226 Alfa)


'HOSONO HOUSE'
(KICS2117 KING)
■ 教養の秋、ちょっと昔のロックをひもといてみましょう

 あんなに暑かった夏も過ぎ去って、急に涼しく、いやちょと寒くなってしまいましたね。「読書の秋、教養の秋」とは良く言ったもので、なるほど暑い夏の間はビーチ・ボーイズを聴きながら寝ころがっているのが精一杯で、なにかを探究しようなんて間違っても思いはしなかったけれど、こう涼しくなると「ひとつなにか研究などしてみようかな」という気になってきませんか?
 そこで今回はちょっと昔の日本のロックなどをヒモといてみよう、と考えました。しかし不思議なもので、書いて行くうちに単なるノスタルジーではなく「今こそ最も聴かれるべき音楽なのではないか」という結論に達してしまいました。さてさて、どんなサウンドが登場するか?

■ 第一部・食欲の秋、チャンプルー・ミュージックを召し上がれ

 「教養の秋」なんて書いたけど、まずは食い気から行きましょう。みなさん「チャンプルー」ってご存じですか?沖縄の方はよく知っていらっしゃいますよね。ゴーヤ(苦瓜)など琉球の特産品をふんだんに使った彼の地の郷土料理で、乱暴な言い方をすれば「ゴッタ煮」です。そしてこの「ゴッタ煮」感覚をロックに持ち込む動きが70年代の東京で盛んに行われていました。その第一歩と言えるのが’久保田麻琴と夕焼け楽団’のセカンド・アルバムその名も『ハワイ・チャンプルー』(75年)です。
 プロデュースとドラマーに細野晴臣を迎え、ハワイで録音されたこのアルバム、ハワイと沖縄と、そしてちょっとニューオーリンズも入ったまさに「チャンプルー・ミュージック」。特に最近、ウクレレのハーブ・オオタサンや、サザンの関口、高木ブーちゃんなどがきっかけとなってハワイアン・サウンドが話題になっていますが、なにをなにを、この『ハワイ・チャンプルー』を聴かずして日本のハワイアン・サウンドを語るなかれ、です!
 しかし敬服してしまうのがリーダー久保田麻琴氏の音楽に対する姿勢です。世界中の素晴らしい音楽を研究、吸収し、敬意を払いながら再現している。そのポリシーは’サンディー・アンド・ザ・サンセッツ’として世界的に活躍している今日まで、見事なほどに一貫しています。
 「沖縄とかってサカモトもやってんじゃん」だって?’世界のサカモト’がオキナワン・サウンドに接近したのは87年発表のアルバム『NEO GEO』以降のこと。あれはあれで素晴らしいですが、それまでは沖縄のオの字も見せなかったサカモトの突然の展開に「な、なんだよ急に!?」と驚いた人も多いのではないでしょうか?それに比べて久保田氏はその道一筋20余年、お見事です。そういった意味では「島唄」の宮沢和史(The Boom)などは久保田氏から数えて第三世代くらいになるのかもしれませんね。

 夕焼け楽団でもう一枚採り上げたいのが79年発表の名盤『セカンド・ライン』。これイケます!気持ちいいゼ!『ハワイ..』では隠し味だったニューオーリンズ風味が全面に押し出されながら、東京の冴えたセンスも交錯する。オープニングの「ラプソディ」からもう、カーッ、たまらん!そもそも「セカンド・ライン」とはピアノやブラスで奏でられるニューオーリンズ独特のリズムのこと(ピアノのドクター・ジョンや、ブラスのダーティー・ダズンが有名)。その言葉を堂々とタイトルに持ってきたところに久保田氏の自信が伺えます。
 そしてこのアルバム、ジャケットを是非載せたかった!わかるかなー、この感覚。私は70年代の雑誌'POPEYE'(今の「ポパイ」とは少々内容が異なる)を密かに古本でコレクションしているんだけど(「ヴィンテージ・ポパイ」と勝手に呼んでます。実は結構、同好の士がいるらしい)そう!これだよ、このデザイン、これこそあの頃の雰囲気なんだ!'POPEYE'なんかモロにそうですが、このアーバンな(?)感じに当時はドキドキしたもんです。

 さてその久保田氏が自らカヴァーして本土に紹介したのが、最近何かと話題の’喜納昌吉とチャンプルーズ’です。覚えてるよー、このジャケットも、名曲「ハイサイおじさん」も。77年にリリースされた時は小学校6生だったんだけど、しっかり覚えています。というか、今からは想像が」つかないかもしれないけど、それほど喜納昌吉の登場ってのは音楽通に限らず、一般のマスコミまでも巻き込む程、衝撃的だったんです。ラジオで「ハイサイおじさん」を聴いて、「少年マガジン」のグラビアでアルバム・ジャケットを見て、子供心に「す、すごい人達が登場した!」と腰を抜かしてしまいましたよ。
 しかし、文句なく、素晴らしい。今まさにこのアルバムを聴きながらキーを叩いているんだけど、どの曲でもどの曲でも思わず体が動く。それも「リズムを取る」なんて生易しいもんじゃない。足が、腰がグイグイ動いてしまうんだ。最近よく「グルーヴ」だの「グルーヴィー」だの言うけど、チャンプルーズのグルーヴは強烈!改めて聴いてみるとベース・ラインが妙にジャズ的だったりして、琉球音楽の深さを感じますね。チャンプルー・グルーヴの影にこのベース・ラインアリ、と見た。とにかくこの一枚から全てが始まったのだから、必聴!です。

 さらに、今こそ聴くべき名盤中の名盤が80年リリースの『BLOOD LINE』です。ライ・クーダや元カラパナのメンバーの他、前述の久保田、細野両氏も参加してハワイで録音されたこのアルバム、なによりも注目すべきはいまだに歌い継がれてヒットを続けるあの「花」のオリジナルが収録されていることです。そう!オリジナルはここにあります!
 たしかこの曲、喜納氏が高校生の時に一人で創ったのではなかったかな。曲も、歌詞も、あと100年経っても古くはならないでしょう。怪物のような、本当に不思議な曲です。

 今、改めてウチナーグチ(琉球弁)歌詞の対訳を読んでみたんですが、すごいね、とにかくハッピー。「ハイサイおじさん」なんて大爆笑モノですよ。なるほど、これで言葉のわかるウチナンチュー(沖縄の人)は熱狂するわけだ。しかし、このページにあまり政治的な事は書きたくないんだけど、こんなに豊かでハッピーな人達、しかも元々は独立国だった人達を「あんな目」に合わせちゃいけないよねぇ。歌詞も更に良く読むと単なるハッピーだけじゃなくて、時代に翻弄された琉球の姿をイヤミなく表しています。うん、深いものがあるな。

 さて第一部の最後を飾るのは、チャンプルー・ミュージックのフィクサーにしてサダナリの「心の師」、細野晴臣氏です。この人は外せない!
 名曲「北京ダック」収録の『TROPICAL DANDY』(75年)や、知る人ぞ知るエキゾチック・サウンドの名曲をカヴァーした『秦安洋行』(76年)も捨てがたいですが、コンセプト・アルバムとして見事な完成度を見せているのが77年発表の『はらいそ』です。
 沖縄あり、ニューオーリンズあり、アジアありのゴッタ煮感覚は前述の夕焼け楽団に通じるところですが、細野流は一味違う。なにしろ子供のころから「ヒットチャートで1位を獲る曲」を意識して音楽を作ってきたという細野氏、強烈なポピュラリティーを持って聴き手に迫って来ます。うーん、難しい言い方になってしまったなあ、とにかくわかりやすくて、楽しいのだ!
 そのセンスが後の’イエロー・マジック・オーケストラ’に繋がり、日本中の小学生が体育の時間に「ライディーン」で創作ダンスを踊るに至ったわけですが(ほんとか?)、このアルバムはそのYMOのメンバーが初めて会した歴史的な一枚でもあります。ちなみに名義は’細野晴臣とイエロー・マジック・バンド’となっています。
 全曲たっぷり楽しめますが、特に注目したいのが「ファン・ファタール〜妖婦」でしょう。ドラムス高橋幸宏、シンセサイザー坂本龍一、そしてベース、キーボードとヴォーカルに細野晴臣。YMO前夜の貴重なモニュメントです。
 でもオープニングの「東京ラッシュ」の楽しさも捨てがたいですね。こんな文句無しに楽しい音楽ってのも、長らくお目にかかってないなぁ。

 さらに一枚、最近気になって仕方ががないのが73年発表のファースト・ソロ・アルバム『HOSONO HOUSE』です。70年代初頭のフォーク・ロックの影響が強い作品ですが、すでにしっかりチャンプルーしています。細野史研究家(日本に何人?)には大きなテーマとなる、氏の魅力が凝縮された一枚と言えるでしょう。注目は2曲、ピチカート・ファイブがカヴァーした「パティー」の原曲(しかしよくこんなところから引っ張って来たよな、小西も)と、なんだか知らないけれどやたら迫力のある「薔薇と野獣」でしょう。
 特に「薔薇と野獣」は凄い!得体の知れない様な妖しいベースラインと、エレピとドラムス。もしかするとこれは細野氏による「グルーヴの実験」だったのかもしれません。

 はい、第一部は以上。3組のチャンプラリストをご紹介しました。それぞれの「お店」を一言でいえば、喜納昌吉は地元のウチナンチューが毎晩集うコザの名店、夕焼け楽団は沖縄出身者が都内で営業する知る人ぞ知る店、細野氏は我々ヤマトンチュー(本土の人間)の口に合わせたファッショナブルな人気店、というところでしょうか。さてあなたはどのお店のチャンプルーを召し上がりますか?

 さて次ページ、第二部はグッと雰囲気を変えて、70年代のいや、昭和のトーキョー・シティ・ポップスをご紹介。はっぴいえんど、シュガーベイブ、小坂忠などなど。当時の大スター’ウナギイヌ’がご案内します。


わんわん、みなさん僕を覚えてますか?
僕もあの頃よく聴いたものです
クリックしてくださいね





マニアさん向け注釈

サカモトのオキナワ


 「坂本龍一はYMO結成前、芸大時代に『HATERUMA』というアルバムを出しています。オキナワ・サウンドの導入が『NEO GEO』('87)以降というのはおかしいのではないでしょうか」というご指摘を頂きました。当方、そのアルバムも考慮した上で書いております。

 『HATERUMA』についてはリリース直後、'70年代後半から知っております。コジマ録音という製作・プレス会社から自主制作でリリースされたアナログLPで、内容はドラムとピアノのデュオでした。今となっては超レア盤ですが、当時はたまに雑誌にも採り上げられており、年齢35歳以上、サカモト・ファン歴20年以上の人々(私もそうですが)の中には、"幻のファースト・ソロ"として記憶されている方も少なくないと思います。それを知りながら「『NEO GEO』以降」と書いたのは以下のような理由によります。

 1.坂本龍一のコンセプト変遷

 確かに一旦は沖縄へのオマージュを語ろうとしたかもしれませんが、その後の『千のナイフ』('78)はそのタイトルの通り、アンリ・ミショーやドゥルーズ=ガタリといった記号論的アプローチの音楽への導入であったし、カクトウギ・セッション名義の『サマー・ナーヴァス』('79)はクロスオーヴァーの文脈の中で語られるようなものでした...このままでは以降のソロ活動について全部書いてしまうことになりますが、行きがかり上やってしまうと(苦笑)...。

 シングル『WAR HEAD』('80)、『FRONT LINE』('81)とアルバム『B-2 UNIT』('80)はネオナチの台頭、徴兵制の復活などに関心と危機感を抱いていた当時の坂本の心情表出と言えるでしょう。サウンド的には当時親交が篤(あつ)かったスロッピン・グリッスルのジェネシス・P・オーリッヂと、XTCのアンディ・パートリッヂの影響が見受けられるものでした。続く『左うでの夢』('81)はアジア・ユーラシア的サウンドの導入がキーポイントで、レコーディングに参加し詞曲も提供したムーンライダーズの影響も大きかった様に思います。
 その次の『戦場のメリークリスマス』('83)については説明不要でしょう。'80年代中盤のシングルにしても、デイヴィッド・シルビアンのバンド"JAPAN"に急接近したエスニック趣味のコラボレーションであったり、トーマス・ドルビーとのユニットによるエレクトリック・ポップだったり、タイの国家の歌詞を引用したものだったりしました。
 ターニングポイントとなった"MIDI-School"レーベル創立後の大作『音楽図鑑』('84)は南方熊楠を思わせる博物学の音像化でした。またこの時期は当時流行していたパフォーミングアートへの接近も見られました。モリサ・フェンレイとのコラボレーションとそのサウンドトラック『エスペラント』('85)、筑波科学万博での坂本自身のパフォーマンス−ラジカルTVとのコラボレーション『TV-WAR』('85)、ヴィデオ作品『ADELIC PENGUINS』('86)などがそれにあたります。
 そして傑作『未来派野郎』('86)はその名の通りイタリア未来派へのオマージュ...と、私はこの10年間の活動をリアルタイムでじっくりフォローしていましたが、どこにもオキナワ的なものは登場しませんでした。
 更に視野を拡げ、アーント・サリーのヴォーカルPhewやグンジョーガクレヨン、佐藤薫率いるEP-4、古楽器アンサンブル"ダンスリー"との共演、ライヴ・ユニットであった"B-2 UNITS"、「い・け・な・いルージュマジック」や前川清の「雪列車」、伊藤つかさの「恋はルンルン」にまで眼を転じても、ともかくオキナワのオの字も出て来ないのです。

 ところが『NEO GEO』('87)、『Beauty』('89)、『Hart Beat』('92)更には同時期のシングル『you do me』('90)に至るまで、'87〜'92年頃の坂本はまさに「オキナワ期」ともいうべき期間を送ります。
 前置きが非常に長くなりましたが、坂本のこうした音楽遍歴を見ると、久保田麻琴氏が行っていた東京製モーダン・サウンドと、琉球音楽の融合という作業(ついでにいうとそれを内地で商品化すること)については、やはり「『NEO GEO』から」と考えるのが妥当なのではないでしょうか。

 2.ラジオ番組でのコメント

 '86年6月、日曜日の午後にFM東京でやっていた坂本自身の番組で、チャンプルーズの「花」をかけ、突如「こういうの、やろうかなぁ」と言い出しました。ゲストで来ていた鈴木慶一が少々驚いていた様に記憶します。更に坂本は「次回作のコンセプトはキマリかなぁ」とも言っていました。当時はハードな『未来派野郎』のリリース直後で、聴いていた私は「冗談で言っている」としか思いませんでしたが...本当でした。翌年発表の『NEO GEO』に、突如オキナワ・サウンドが導入されていたのです。この時のコメントも記憶に残っており「'80年代後半に心情の変化があり、オキナワ・サウンドに接近した」と考えました。ちなみに実家の物置の中に、この番組のエアチェック・テープがまだあります。

 あともうひとつ、我如古より子ら"オキナワチャンズ"をフィーチャーして、琉球音楽を大胆に引用し始めた坂本に対する、地元・沖縄のアーティスト達の意見、というのも参考にしたのですが、長くなるのでここまでにしましょう。ともかくこうした様々な前提を踏まえて、上記の本文を書きました。
 あまりに突き放した書き方であったために、熱心な坂本ファンの方(ご覧の通り私自身もそうなんですが)に誤解を与えてしまうような文章であったことをお詫び申し上げます。うぅ、本文より長くなってしまった(笑)。

 このサイト百数十ページの文章は、全てこうした過去の記憶と資料に基づいて書かれております。但し冗長になってしまうので、そうした前提部分をかなり省略して書いています。ご不明の点があれば遠慮なく、メールにてお尋ね下さい。上記の様な省略した記述について詳しくお話しさせていただきますし、必要ならばこの様に文章やページを追加致します。

ps.坂本及びYMOについては、まだまとまった文章を書いておりませんが、今年中に大特集の予定です。なお'83年12月のYMO散開コンサート会場で配られたアルファ・レコードYEN友会のフライヤー(チラシ)をデザインしたのは、不肖サダナリであります(署名入り)。実はその時のキャラクターをこのサイトのトップページに持って来ているのですが、まだお気づきの方はいらっしゃならいようですね。フフフのフ。

99/03/17 追記 




MENU